いまインディーズゲームが注目されている。インディーズゲームは個性的かつ独創的なものが多く、スマホの台頭により発表できる場が増え、家庭用ゲーム機においても個人開発を支援する仕組みが整っている。どのプラットフォームも「ぜひウチで開発してください!」とインディーズ系の個人・独立会社が引っ張りだこだ。
ここ数年で目立ってきた印象のあるインディーズゲームだが、日本では30年以上前から個人が活躍できる場があった。コミックマーケットなどで見かける「同人ソフト」がそれである。当時のインディーズシーン=同人ソフト市場はどのように生まれ、またこの時代のクリエイターは今何をしているのか。当時を知るクリエイターの1人、オニオンソフトウェアの代表で、現在有限会社ツェナワークスで技術開発責任者を務める、おにたま氏に話を伺った。大変興味深い内容だったので、前後編の2回に渡ってお届けする。
1966年生まれのおにたま氏とコンピューターの出会いは、小学生のころ両親に連れられて観に行ったコンピューターフェアだったという。そこにただならぬ未来SFな雰囲気を感じたおにたま氏は、近所にあった富士通のショールームに通い詰める。そこには、LKit-8というワンボードマイコンが展示されており、これを触っては感動していた。コンピューターに入力したものがテレビ画面に映るという、ただそれだけで猛烈に興奮し、近くにあったパソコンショップへ通い詰めて、そこでひたすらプログラムを打ち込んでいたそうだ。
中学生になると周りにテレビゲームが好きな仲間が増え、彼らと一緒にパソコンショップへ行って店頭にあるパソコンを触らせてもらい、雑誌に乗っているゲームのプログラムを打ち込んだり、独自のゲームを作ったりしていた。すると仲間のひとりが「作ったゲームを売りに行こうぜ」と提案してきた。
当時、秋葉原のパソコンショップの中には、自作ゲームプログラムの持ち込みを受け付けている店があり、面白いゲームならショップが買い取ってくれた。その翌日はゲームソフトとして店頭に並んでいたのである。
その情報を元に、友人らと秋葉原のパソコンショップへ持ち込む。店員に自作したゲームを遊んでもらったところ、「面白いね、買い取るよ」と即決。「はい、じゃあ買取料ね」と、その場で数万円のお金になった。おにたま氏は自分が作ったゲームをいろんな人に遊んでもらえるのがとにかく嬉しくて、以降も新作を作ってはショップへ持ち込み、買い取ってもらったという。
中学生まではパソコンショップで直接ゲームを作ったりパソコンを借りたりしてゲーム開発をしていたおにたま氏だったが、1982年に高校入学祝で念願のパソコンを手に入れる。当時発売されたばかりのPC-6001だった。これでますますゲーム開発が捗ることになる。
こうして半分趣味でパソコンゲームを作り続けていたが、ひとつの転機を迎えることになる。コミックマーケットへの出展だ。当時、有志が集まったサークルで作った会誌をコミケに出すことが目的だったが、おにたま氏はコミケ会場であるものを目にした。パソコン用ソフトを置いているサークルがいくつかあったのだ。ただ、当時はソフトといってもCGイラスト集ディスクだったり、プリンタで出力したCGイラストを1枚数百円で頒布していたりというものがある程度で、ゲームと呼べるものを出しているのは1サークル(「同人ソフト」の名付け親でもある帝国ソフト)だけだった。おにたま氏は「ああ、コミケは本じゃなくちゃいけないってことはないんだ!」と理解し、当時自分で作ったゲームを持ち込んで出品するようになる。
コミケに出展するようになり、サークル会員も増えてきた。インターネットやパソコン通信のなかった当時は、雑誌やイベントを通して仲間を増やすことが多かったのである。その中には可愛い女の子の絵を描ける人もいた。だったら、「女の子が出てくる麻雀ゲームをPC-8801で作ろう」という話になり開発に着手。それが1984年に生まれる伝説の同人ソフト『まじゃべんちゃー』である。
1986年になると、パソコンゲーム雑誌『テクノポリス』が同人ソフトの特集を組むようになる。これによって同人ソフトの存在が広く知れ渡り、出展サークル数も一気に増えた。同じく1986年に"テクノポリスソフト"が『まじゃべんちゃー』を製品版として発売。面白い同人ソフトを作れば一気にメジャーデビューできるという一つの道筋ができた。
ただのCG集やアドベンチャーゲームが多かった時代から、多彩なジャンルが同人ソフトで生まれるようになったのもこの頃だ。
1988年になると同人ソフト即売会のみのイベント"パソケット"の開催が始まり、『テクノポリス』以外のメディアも同人ソフトを扱い始める。この80年代後半から90年代前半にかけて、同人ソフトブームがあったのは間違いない。その後、1994年の『テクノポリス』休刊、Windows95のリリースによるインターネット到来などさまざまな要因により、同人ソフトブームはひとまずその役目を終えた。
1990年前後に起きた同人ソフトブーム。その理由はいくつかあるのだが、根本には「当時のパソコンは、電源を入れるとすぐにプログラミングができる環境だった」点にあるのではないか、と筆者は思っている。「何かゲームを作りたい」と思えば、パソコンの電源を入れればすぐに作ることができたのだ。
'80年代〜'90年代前半のパソコン(Windows95以前)は、電源を入れるとBASIC(ベーシック)と呼ばれるプログラミング言語が起動した。メーカー毎、機種毎に互換性のないBASICだったが、基本的な記述はほぼ同じで、かつ初心者にもわかりやすい言語だった。この時代のパソコンは本体にハードディスクなど入っておらず、電源を入れただけではただの箱状態。BASICが起動するだけだ。いま思えばデフォルトで開発環境が起動するというのもすごい話なのだが、当時のパソコンはこれが当たり前だった。
それが今はどうだろう。Unityなどのツールで「簡単にゲームが作れますよ!」なんて言われても、初心者はやっぱり手を出しにくい。本気で取り組めばどうにかなるかもしれないが、使い方を覚えるだけで気が滅入りそうだ。確かにUnityなどの優秀な開発ツールのおかげで今のインディーズゲームシーンは大きくかわってきたし、これによって大勢の個人開発者が気軽にゲームを発表できるようになったのも間違いないだろう。だが、それによって初心者がいきなりこれを使えるかというと……。うむむ、どうだろう。
人は誰でも最初はプログラム初心者だ。そんな初心者が日曜プログラミングなイメージで手軽に手を出せそうな開発言語はないものだろうか。あの時代は電源を入れればBASICが起動し、初心者でも気軽に取り組めたはずなのに。
あーあ、どこかにBASIC落ちてないかなぁ、とボヤきそうになったところで、再びおにたま氏の登場となる。かつて、おにたま氏自身がプログラムを始めたキッカケとなったBASICを、今の時代でも気軽に扱えるようにしつつ、未来のゲームクリエイターを育てるための活動もしているというではないか。
というわけで、『まじゃべんちゃー』後に家庭用ゲームの開発をすることになって会社を設立した件も含めて、そのあたりの話は後編に続く。