1994年イモラ 最後のレースに臨もうとするセナ
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F1

【モータースポーツヒーローズ】悲劇と混乱に満ちた1994年のF1

アイルトン・セナ没後22年目を迎えた今、「神々がF1を見放した年」として今も人々の記憶に刻まれている1994シーズンを振り返ろう。
Written by James Roberts
読み終わるまで:10分Published on
1994年にF1で起こった一連の出来事は、その後のF1のあり方を永遠に変えてしまった。この1994シーズンは後世に語り継がれる熾烈なタイトル争いが繰り広げられた一方、政治的な混乱と対立がこのスポーツに暗い影を落とした。そして、F1に携わる人々が長らく忘れ去っていた悲劇が再び眼前に突きつけられた1年でもあった。
1994シーズン開幕前、前年までF1を席巻していたABS(アンチロック・ブレーキシステム)やフルオートマチック・ギヤボックス、アクティブ・サスペンションといった電子制御装置は各チーム間の戦力均衡化を目論むFIAによって一斉に禁止された。さらに、1983シーズン以降撤廃されていたレース中の給油レギュレーションが11年ぶりに復活。1980年代のF1シーンを牽引したアラン・プロストは1993シーズンの王座と共に引退し、プロストの宿敵であったアイルトン・セナはWilliamsへ移籍しデイモン・ヒルと新たにパートナーを組む事となった。打倒セナの急先鋒と目されていたドイツ人のミハエル・シューマッハは引き続きBenettonに残留して1994シーズンの開幕を迎えた。
開幕戦ブラジルGPと日本のTIサーキット英田で開催された第2戦パシフィックGPではシューマッハが連勝した一方、セナはまさかの連続リタイヤ・無得点で開幕2戦を終える。そしてヨーロッパラウンドの幕開けを告げる第3戦サンマリノGPの週末、世界は恐ろしいほどの喪失感を味わうことになる。
1994年イモラ 最後のレースに臨もうとするセナ

1994年イモラ 最後のレースに臨もうとするセナ

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悲劇の週末は、金曜のプラクティスから始まった。ヴァリアンテ・バッサ・シケインでルーベンス・バリチェロのJordanが時速約225km/hで宙を飛びながらコースサイドの金網に激突。この時は幸いバリチェロの命に別状はなかったが、翌土曜の予選セッションでSimtek Fordを駆る新人ドライバー、ローランド・ラッツェンバーガーが高速のヴィルヌーブ・カーブで大クラッシュを引き起こす。ルーキーながら快活な人柄で周囲に親しまれていたオーストリア人ドライバーは、この事故によって命を落としてしまった。もはやとどまるところを知らぬかのようにさらなる悲劇の連鎖は続き、日曜の決勝レースでは誰も信じたくないような出来事が起こってしまう。決勝レース7周目、タンブレロ・コーナーでクラッシュしたセナも帰らぬ人となってしまったのだ。
私にとって、セナはタツィオ・ヌボラーリやジム・クラークと並ぶ伝説的な存在だ。今でもアイルトンという名を発するだけで胸が熱くなる。こんな気持ちにさせるドライバーは稀有だよ
マレー・ウォーカー(元F1コメンテーター)
1982シーズン以来となるF1での死亡事故 ― しかもそれが2日連続で起こってしまったという事実に、世界は戦慄した。
第4戦モナコGPは、F1界が痛ましい悲しみに暮れる中始まった。このスポーツに携わる者すべてがいまだサンマリノでの悲劇の週末を受け入れられないままであったはずだ。そんな中始まった最初のプラクティスセッションで、カール・ヴェンドリンガーが駆るSauberは海沿いのヌーベル・シケインでバリアに激突する。この若手オーストリア人ドライバーは幸いなことに命を落とさずに済んだが、3週間もの間昏睡状態に陥ってしまう。
セナを失った当時のF1は、すべてが異常な緊張をはらんでいて、ナーバスきわまりない状態でした
ジェームズ・アレン(F1ジャーナリスト)
「あのシーズンは非常にピリピリした緊張感が支配した1年でした。そのムードを決定づけたのはまちがいなくあのイモラでの週末です」と語るのは、F1ジャーナリストでありTVコメンテーターも務めるジェームズ・アレン。「シーズンの開幕前にも、ドライバーエイド撤廃を巡る政治的な混乱や対立が相次いでいました。その前の2シーズンはWilliamsがハイテクを武器にした圧倒的な強さでF1を席巻していましたからね。Benettonのチーム代表を務めるフラビオ・ブリアトーレとFIA会長のマックス・モズレーは、セナの死後も水面下で対立を続けていました。1994シーズンはすべてが異常な緊張をはらんでいて、ナーバスきわまりない状態だったんです」
ルーベンス・バリチェロのクラッシュは悪夢の序章にすぎなかった

ルーベンス・バリチェロのクラッシュは悪夢の序章にすぎなかった

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セナ亡き後のF1を牽引する大役を担ったのは、若き天才シューマッハ。彼はシーズン序盤から大量のポイントリードを築いて一気に初戴冠へと突き進むかと思われたが、夏に行われたイギリスGPで起きたドラマと陰謀がタイトル争いの行方を一気に混迷化させることになる。
シルバーストンでのイギリスGPを迎えるまでに、シューマッハは37ポイントの大差でチャンピオンシップをリードしていた。シルバーストンでの予選ポールを獲得したのは、地元大観衆の声援を受けて奮起した英国人デイモン・ヒル。決勝スタート前のパレードラップでヒルを何度も追い越して戦列をリードしてしまうという不可解な行動に出たシューマッハは、度重なる警告とピットストップペナルティの指示も無視。ルールを著しく侵したと判断され、決勝2位の結果を剥奪されると共に2レース出場停止処分を言い渡されてしまう。
Benettonは本来禁止されているはずのデバイスの搭載から給油システムの不正改造にいたるまで、あらゆる面で疑惑の対象となった。
ヒルはイギリスGPを勝利し、母国GP初優勝を飾る。これは、彼の偉大な父である故グレアム(1962・1968年ワールドチャンピオン)ですら一度も達成できなかった偉業だった。だが、1994年夏のF1界の話題をさらったのはヒルの躍進ではなくコース外で展開された政治的混乱だった。ドイツGPの決勝中、ヨス・フェルスタッペン(先日2016年スペインGPでF1初優勝を飾ったRed Bull Racingのマックス・フェルスタッペンの父)のマシンがピットストップ中に炎に包まれるという事故がきっかけとなり、Benettonは本来禁止されているデバイスの搭載から給油システムの不正改造にいたるまであらゆる面で疑惑の対象となった。BenettonとFIAの対立が激化する中、ホッケンハイムで行われたドイツGPではゲルハルト・ベルガーがFerrariにとって3年半ぶりとなる感動的な勝利を飾った。
イモラに散った好漢ローランド・ラッツェンバーガー

イモラに散った好漢ローランド・ラッツェンバーガー

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当時、Eurosportでコメンテーターを務めていた元ドライバーのジョン・ワトソン(GP通算5勝)は1994シーズンを次のように振り返っている。「Benettonのチームクルーたちはルールブックを自分たちに有利に解釈してしまうのが得意だったし、ミハエルもそれを最大限に活かそうと考えていた。彼の抜け目なさは当時のF1ドライバーたちの中でも際立っていたよ。当時最強と思われていたRenaultエンジンを搭載したWilliamsに対し、パワーで劣るFordエンジンを積んでいたBenettonのクルーたちは『バッドボーイズ(悪ガキども)』とあだ名されていたね。いっぽう、FIAとモズレー会長はデイモンとWilliamsにチャンピオンシップを勝たせようとあからさまに肩入れしていたように見えた」
自らが行った不正行為により、Benettonは手痛いしっぺ返しを食らうことになる。ベルギーGPではレース後に行われた車検においてスキッドブロック(マシン底面に装着が義務づけられた板状パーツ)の厚みが不足しているとしてシューマッハの優勝は剥奪され、更にシルバーストン後に下された2レース出場停止処分の確定により、シューマッハはイタリアとポルトガルの2GPを欠場。シューマッハはヨーロッパラウンド最後の一戦となるヘレスでのスペインGPで復帰し、さっそく優勝を飾るが、チャンピオンシップ・ポイントではヒルがシューマッハのすぐ背後に迫る猛追を見せていた。そして、降雨に見舞われフルウェットレースとなった鈴鹿での日本GPにおいて、ヒルは一世一代の勇猛果敢なドライブを披露する。
デイモンは鈴鹿で見せた自らのパフォーマンスで、懐疑論者たちを沈黙させたのさ
ジョン・ワトソン(元F1ドライバー)
「あの日本GPでのデイモンのドライブは神懸かっていたよ」とワトソンは回想する。「最前列からレースをスタートする時のヒルは抜群の強さを発揮する。鈴鹿ほどの難関コースであっても、マシンのセットアップさえ完ぺきに決まっていればあのような難しいコンディションでも際立ったパフォーマンスを見せてくれるんだ。デイモンは鈴鹿で見せた自らのパフォーマンスで、懐疑論者たちを沈黙させたのさ」
ヒルは鈴鹿で懐疑論者を沈黙させる一世一代のドライブを披露

ヒルは鈴鹿で懐疑論者を沈黙させる一世一代のドライブを披露

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かくして、タイトル決定の場は最終戦アデレードの市街地コースに持ち越された。政治的な混乱の結果、ヒルに対するシューマッハのポイントリードはわずか1点にまで縮まっていた。ただならぬ緊張感が張りつめる中で決勝レースが進行していく。
36周目にトップを走るシューマッハがわずかにコースをはみ出し、それを見逃さなかったヒルは次のコーナーに向けてのろのろとアプローチするシューマッハのインサイドへ猛然と飛び込む。2台は激しく接触し、シューマッハのマシンは片側2輪が浮き上がったかと思うやいなや路面に叩き付けられ、そのままコースサイドの壁にぶつかって停止した。手負いの状態で走り続けてようやくWilliamsのピットまで戻ったヒルだったが、サスペンションが修復不可能なまでに損傷しておりリタイヤを余儀なくされる。この瞬間シューマッハの初タイトル獲得が確定し、ヒルはチャンピオンシップ2位に終わった。
バーニー・エクレストン流に言えば『シューマッハは自分の仕事をやり遂げただけだ』ってことだろうね
ジョン・ワトソン(元F1ドライバー)
ここで再びワトソンの弁を借りるとしよう。「周囲の状況を冷静に判断して行動に移してしまうミハエルも凄いが、あの局面においても愚直なまでにレーシングドライバーらしさを貫いたデイモンも大したものだよ。デイモンは決して市街地コースに強いドライバーではない。だが、目の前のドライバーが突然ミスしてスピードダウンするのを見れば、本能的にそのインサイドに飛び込んでしまうのはレーサーとしてはごく当たり前の行動だ。しかし、そうしたレーサーの本能すら逆手に取ってしまうことができるのがミハエルのミハエルたる所以さ。1ポイント差で追いかけてきているライバルに対してわざと接触を誘い、両方のマシンがリタイヤすればミハエルのタイトルは自動的に確定するんだからね。観ている方はなんともすっきりしない結末だが、バーニー・エクレストン流に言えば『彼は自分の仕事をやりとげただけだ』ってことなんだろうね」
そう、確かにシューマッハは自分の仕事をやり遂げた。このシーズンに8勝を挙げたミハエル・シューマッハは史上初のドイツ人チャンピオン(当時)に輝き、悲劇と絶え間ない政治闘争に塗り固められた混乱のシーズンはようやくその幕を閉じたのであった。
ヒルは最後までシューマッハを追い詰める健闘を見せた

ヒルは最後までシューマッハを追い詰める健闘を見せた

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さて、この1994年最終戦オーストラリアGPを勝利したある古豪ドライバーの名を憶えているだろうか? このアデレード市街地での一戦を制したドライバーこそ、1992年ワールドチャンピオンのナイジェル・マンセル。マンセルは1992シーズン終了後に契約交渉のもつれからWilliamsを放出され、その後は米国のCARTシリーズを戦っていたが、セナを失いタイトル争いで苦戦を続ける古巣を助けるために米国から舞い戻ったのだ。
「あのアデレードでのレースは文句無しにドラマチックでした」と回想するのはジェームズ・アレン。「あのレースでもうひとつ見逃してはならない興味深いポイントは、ナイジェル・マンセルの見事な復活劇です」
「ナイジェルがWilliamsへ復帰するという噂さえ立っていない頃、僕はちょうど5月末に行われるインディ500の取材のために米国でナイジェルと一緒にいました。そんな時、パトリック・ヘッド(Williamsのチーム首脳)から電話がかかってきて、ナイジェルにWilliamsへ復帰してほしいというオファーが届けられたんです。それからすぐにナイジェルの気持ちはF1へと切り替わり、その年の最終戦アデレードでは優勝してみせたのです。ただでさえ異常なほどエモーショナルで目まぐるしいドラマに満ち溢れたシーズンでしたが、ナイジェルが最後にさらなるドラマを付け加えてくれたんです」