William Trubridge
© Alex St. Jean
フリーダイビング

静寂と危険が同居するフリーダイビングの世界

世界屈指のフリーダイバーの視点を通して、最も静かなエクストリームスポーツの世界を知ろう。
Written by Fergus Scholes
読み終わるまで:8分公開日:
ウィリアム・トラブリッジは世界屈指の才能を持つフリーダイバーだ。これまで18ものフリーダイビング世界記録を樹立した彼は、5度のフリーダイビング・ワールドチャンピオンを獲得しており、今もチャンピオンの座を維持している。
22歳だった2003年にフリーダイビングに興味を持った彼は「すぐにフリーダイビングへ夢中になり、この世界に身を捧げて自分がどこまでやれるか試してみようと心に決めたんだ」と振り返る。そしてそれから4年後の2007年、自身初の世界記録を樹立して献身と専心が報われた彼は、以来、あらゆるフリーダイビング世界記録を更新し続けている。

フリーダイビングのスピリチュアルな側面

フリーダイビングとは、息を止めたままどこまで深く潜れるかを競うスポーツだ。命に関わる可能性があるため、フリーダイビングはエクストリームスポーツとして扱われている。しかし、他のエクストリームスポーツ(サーフィン、スノーボード、パラシュート、フリースタイル・モトクロスなど)はアドレナリンに満ちたハイスピードアクションとは異なり、フリーダイビングは平穏と静寂のスポーツだ。それゆえに、エクストリームスポーツの中で特殊な存在として扱われている。
過酷さと静寂さが同居するフリーダイビングの世界

過酷さと静寂さが同居するフリーダイビングの世界

© Alex St. Jean

現在、ウィリアムは2つの異なるフリーダイビングカテゴリーの世界記録を保持している。まずひとつは、最も純粋なフリーダイビングの形式として知られる「コンスタントウエイト・ウィズアウトフィン(CNF:Constant Weight Without Fins)」で、ダイバーは手足にフィンなどを装備せず、泳力のみで潜らなければならない。ウィリアムはCNFで102mという世界記録を樹立している。
ふたつめは「フリーイマージョン(FIM:Free Immersion)」と呼ばれるカテゴリーで、ウィリアムは124mの記録を持っている。FIMでは、ダイバーは垂直に設置されたガイドロープを使って潜ることになる。
フリーダイビングではこのふたつ以外にも6種類のカテゴリーが存在するが、中でも最も危険と呼ばれるのが「ノーリミッツ(NLT:No Limits)」と呼ばれるもので、ダイバーはスレッドもしくはザボーラと呼ばれる乗り物の形状をした重りに掴まって潜水し、浮上の際はバルーンを利用する。現在でのNLTでの世界記録は214m。ウィリアムが特に得意としているのは、泳力だけで潜水するカテゴリーだ。
ウィリアム・トラブリッジ

ウィリアム・トラブリッジ

© Alex St. Jean

世界で2番目に深い海中洞窟「ディーンズ・ブルーホール」の内側

幼少期に英国からニュージーランドへ移住したウィリアムは、現在はバハマ諸島に居住しており、年間を通じてトレーニングを行なっている。世界で2番目に深い海中洞窟として知られる「ディーンズ・ブルーホール」を抱えるバハマ諸島は、フリーダイバーのパラダイスと言える場所だ。202mもの深さを持ち、ビーチの目の前にぽっかりと口を開けているディーンズ・ブルーホールは、バハマ諸島に暮らす人たちの間では「ザ・ホール(The Hole)」として知られている。
風船を海深くまで沈めても簡単には割れないが、ガラス製のボトルを同じように沈めると割れてしまう。だから、横隔膜のストレッチが非常に重要なんだ
ウィリアム・トラブリッジ
RedBull.comがウィリアムに取材した際、彼はザ・ホールでの早朝トレーニングから自宅へ戻ってきたばかりだった。彼は様々なメダルに囲まれたオフィスの椅子に座り、世界記録に挑戦した1日について語ってくれた。「大事なのはルーティンさ。毎日同じ内容の朝食を用意し、トレーニングを通して機能が実証された食事を摂る。僕の場合、オートミールにアーモンドミルクやブルーベリー、レーズンなどを添えたものだね」と彼は語る。
朝食を終えると、彼はストレッチに取り組む。横隔膜を柔軟にしておけば、あらゆる種類のフリーダイビングで大いに役立つからだ。「風船を海深くまで沈めても簡単には割れないが、ガラス製のボトルを同じように沈めると割れてしまう。だから、横隔膜のストレッチが非常に重要なんだ」と彼は説明する。
ウィリアムが過去14年間に渡ってたゆまず鍛えてきた胸郭と横隔膜の柔軟性については、YouTubeにアップされた数多くの映像が証明している。彼の身体があたかもエイリアンのように自在に変形しながらコントロールされる様子には目を見張らずにはいられない。
ストレッチを終えると、ウィリアムはダイビングスポットへ向かい、海面からわずか数メートルの高さに設置されたプラットフォームに寝そべって約20分を過ごす。彼は雑念を極限まで振り払うために瞑想しているのだ。頭の中に何らかの雑念を浮かべばそれだけでエナジーを浪費し、その結果貴重な酸素を失ってしまう。
「ダイブ直前の5分間は、ダイブラインに入水した状態で呼吸を整え、リラックスする。呼吸を荒くしてしまってはダメだ。過呼吸状態のままダイビングするのは危険なので、呼吸を多くしすぎないことが大事なんだ」
ダイビング前に最後の一息を吸い込む際、ウィリアムの脳裏には「これが人生最後の呼吸になるかもしれない」という思いが去来する。スポーツとしてのフリーダイビングは常に死の危険性を伴うが、ウィリアムはダイビング中に溺れて死ぬよりも交通事故で命を落とす方が嫌だと語る。
ひとたび海に潜り始めると、彼の心の中から雑念は消え、あらゆる問題やネガティブな思考はすぐに洗い流されていく。彼は海の底に向かって全く無駄のない動きで泳ぎ、ほとんどバレエのように美しい平泳ぎのモーションで進んでいく。彼はどんなに小さなエナジーさえも推進力に利用しようとする。7回のストロークを経て水深約25mまで進むと、身体が浮力を失って自然に沈むため、自然落下の状態になる。
水圧で肺は通常の13分の1まで収縮する
潜水を続けて2分を過ぎると彼の身体の動きは止まり、重力だけが作用する状態になる。この時のウィリアムの心拍数は20bpm台後半まで落ちるが、彼はこの水深では、測定技術も大してあてにならないとしている。潜水中の心拍数を正確に推し量るのは困難なのだ。
これほどの水深になると、肺の大きさは通常の13分の1まで収縮するが、潜水中に何らかの苦痛や不快さを感じた経験はないのかと彼に尋ねたところ、それらを感じることは一切なく、ただ完全なる平穏だけが支配するのだと返している。むしろ、深度が増して周囲がより暗くなるほど、心は落ち着くとしている。
ダイビング直前はできるだけリラックスするよう心がけている

ダイビング直前はできるだけリラックスするよう心がけている

© Alex St. Jean

浮上に潜む危険

"タグ"(ダイバーが事前申告したターゲット深度に置かれた標識)を掴み、ようやく海面に向けて浮上し始めれば、ダイバーには安堵の気持ちが芽生えるはずだと考える人は少なくないだろう。しかし、そこでダイビングが完遂したと考えるのは大間違いだとウィリアムは語る。むしろ、ここからがフリーダイビングの最も苦しいフェーズの始まりなのだ。
浮上は最も多くのエナジーを使う。また、最も大きな危険も潜んでいる。ウィリアムはフリーダイビングと難関峰の登山を比較しつつ、映画『エベレスト 3D』でも描かれた同郷ニュージーランドの登山家、故ロブ・ホールの「十分な意志さえあれば、どんな愚か者でも山を登ることはできるが、本当に肝心なのは、生きて山を下りることなんだ」という言葉を引用する。
浮上には、33回もの腕かきが必要となる。そこでようやく浮力を得て、海面に上がれるようになるのだ。海面まで残り10mまで来ると、極限まで酸素を奪われたフリーダイバーは "ブラックアウト" 寸前の状態になる。
ある時、ウィリアムは世界新記録となる潜水深度を達成したものの、海面に上がって「アイム・オーケー」と発声する前にゴーグルを外すのを忘れてしまったため、そのダイブは正式記録と認められなかった
「海面に到達すると、細心の注意を要する15秒がそこに存在する」とウィリアムは語り、フリーダイブのアテンプトが正式記録として認定されるために必要な一連の手順について説明を続ける。海面に顔を出して15秒以内にゴーグルやノーズクリップなど顔面を覆う全ての装具を外し、手を上げてオーケーサインを示し、「アイム・オーケー」と発声しなければならない。
ある時、ウィリアムは世界新記録となる潜水深度を達成したが、海面に上がって「アイム・オーケー」と発声する前にゴーグルを外すのを忘れてしまった。この手順は正規なものとして認められず、ジャッジは失格を意味するレッドカードを提示しなければならなかった。正式記録として認められなかったのだ。
本人が望みさえすれば、翌日の再挑戦も可能だったが、ウィリアムは、ダイブをすると多量の乳酸が体内に溜まるので、通常は少なくとも48時間は待ってから再挑戦するとしている。
海面に上がる最後の10mに最大の危険が潜む

海面に上がる最後の10mに最大の危険が潜む

© Alex St. Jean

我々と同じくオートミールとベリーというごく普通の朝食を摂りながら、それ以外の部分では通常とは大きくかけ離れた驚くべきライフスタイルを送っている - これがフリーダイバーだ。ウィリアムとの対話を通して我々がフリーダイビングについて学んだ内容を振り返れば、彼の落ち着き払った態度にもおそらく説明がつくはずだ。決して誇張することなく、余計なことを言わない彼が、フリーダイビングに必要な全ての資質を身につけているのは間違いない。
落ち着きと無駄のなさは、フリーダイビングの世界でトップに立つためにはどちらが欠けてもいけない。ウィリアムの愛するスポーツへの集中力と献身ぶりを考えれば、彼が遠い未来まで記録更新を続けても驚くことはないだろう。