Gaming
前回"PasocomMini"の発案者としてご登場いただいた、ハル研究所の代表取締役社長・三津原敏氏は、『MOTHER2』や『ポケットモンスター』シリーズ、『大乱闘スマッシュブラザーズX』などを担当したプログラマーでもある。今回は三津原氏の少年時代にもスポットライトを当て、ゲーム業界でプログラマーとして活躍するまでの経緯を辿ってみたい。
静岡県浜松市に生まれた三津原氏がビデオゲームに触れたのは、古本屋に置かれていたテーブル筺体の『ブロック崩し』が最初とのことだ。
「小学4年生くらいのときですね。『スペースインベーダー』が流行る少し前です。お小遣いをもらうと、自転車で30分かかる古本屋さんまで遠征していました」(三津原氏)
小学4年生で、自転車で30分も走るというのはなかなかの労働だと思うが、ビデオゲームが好きだからではなく、ものめずらしくて見たかったというのがおもな動機だったそうだ。
「初めてパソコンに触ったのは中学生のとき。同級生が「インベーダーがあるから家に遊びにおいで」と誘ってくれたんです。アーケード筺体のことかと思ったら、PC-8001があって、キーボードでゲームをするという初体験をしました。このときも、ゲームそのものに熱中するより、「これ、どうやって動いてるんだろう?」という部分に興味がわいたんです」(三津原氏)
当時から、のちにプログラマーとして活躍する片鱗を見せていたと思わせるエピソードである。その友達の家には入り浸るようになり、本に載っているプログラムをいくつも打ち込んで遊んでいたのが、三津原氏のプログラム学習のスタートであるという。
そして三津原氏は高校に進学し、ついに最初のパソコンを購入。筆者は、その機種がFM-11と聞いて驚いた。FM-11といえば当時の高級ビジネスパソコンで、とても"子供"が選ぶような機種ではなかったからだ。
「せっかくなら性能が高いマシンがいいなと、奮発してFM-11を買いました。実は、FM-7と互換性があると勘違いしていたんです。あとで全然動かないことがわかり、ショックでしたね(笑)。FM-11はゲームはおろか、普通のソフトも少なかったですから。でもそのおかげで、他機種のプログラムを解析して移植したりしていたので、自分の試練としてはよかったなと。ゲームで遊ぶほうにはいかず、プログラム学習に専念できたというか」(三津原氏)
もしここでFM-7のような、ゲームがたくさん発売されているパソコンを選択していたら、のちのプログラマー三津原敏が誕生しなかったかも……。そう考えると、逆に筆者は三津原氏の若かりし日の勘違いを拍手喝采で喜びたい。あの『MOTHER2』がプレイできなかったかもしれないなんて、そんなのイヤだ。
「FM-11はソフトがなさすぎて苦労しましたが、「ないなら自分で作ればいいや」と考えまして。プログラム開発ツールやグラフィックツールを作ったりしました。でも、私には絵心がないから、ツールを作っても絵を描かないんですね。作っただけで満足しちゃう。一応、FM-7のゲームをFM-11に移植したりもするんですけど、完成すると「動いた!」と満足して終わっちゃうんです。あんまり遊ばない(笑)」(三津原氏)
前言撤回。FM-7を買おうがPC-8801を買おうが、三津原氏はプログラマーとして活躍されていたと思います。
そうしてプログラムを覚えた三津原氏は、どういう経緯でハル研究所に入社したのだろうか?
「実はゲーム業界を選んだのはたまたまで、単にプログラマーの仕事がしたかったんです。あのころは、寝ても覚めてもプログラムのことを考えていましたから。当時、工学社の『I/O』というパソコン誌が愛読書だったんですけど、そこにハル研が「キミもプログラマーにならないか?」みたいな広告を出していたので、応募したんです。それで受かって、たまたま配属されたのがゲームを作る部署だったんですね。いろんな方の夢を奪ってしまうかもですが(笑)。ちなみに愛知県近郊の某有名ゲーム会社2社も受けたけど、見事に落ちました(笑)」(三津原氏)
ハル研に入社してからの三津原氏は、『MOTHER2』のメインプログラマーなどを務め、一度1999年に退職。社外で様々なゲーム制作に関わり、2012年にハル研に再入社、2015年より代表取締役社長に就任している。
ハル研内でも外でも、たくさんのゲーム制作に携わってきた三津原氏に、プログラムをすることの楽しさと辛さを伺ってみた。
「コンピューターは基本、間違わないですよね。非は必ずこちらにあるのがわかっている状態で仕事をするというのは、あまり辛くないんです。自分が狙ったアルゴリズムで正当な結果が出てきたときは、ドヤ顔でガッツポーズしたくなります(笑)。そういうコンピューターとの関係性が楽しい。プログラムであまりストレスを感じたことはないですね。プログラム大好きですから」(三津原氏)
まさに"天職"という言葉が浮かんできた。それでは、三津原氏が思う、プログラマーにとって大切なことは、どんな部分だろうか?
「つねに勉強をすることですね。時代によってプログラムの組み方は変わっていきます。その時代に沿ったプログラムを組むためには、いろんなことを勉強しなきゃいけない。プログラム言語はもちろん、最新ハードの機能を頭に入れて、特徴を活かすようなプログラムを組む必要がある。そういった最新情報を、常時追っていくことが大切です」(三津原氏)
現在プログラマーを目指している人が読んでいたら、ぜひとも参考にしてほしい。ちなみに、三津原氏が尊敬するプログラマーであり、元上司でもある故・岩田聡氏(前任天堂代表取締役社長、元ハル研究所代表取締役社長)も、勤勉さには並々ならぬものがあったという。
「プログラマーはいろんな手法を覚えてプログラムに臨むんですけど、岩田さんはとにかく引き出しの数が多いんです。いつそんなに勉強していたんだろうと思うほど。わからないことを調べる探究心、好奇心はすごかったですね」(三津原氏)
今回、三津原氏を取材中、実はひとつ気になったことがあった。三津原氏のノートパソコンのキーボードを見ると、真っ黒で文字が書かれていないのだ。最初、こすれて文字が消えているのか、あるいはそういう仕様なのかと思ったら、キーボードに黒いシールを貼って文字を消しているのだという。その理由を伺ってみると……。
「なんとなく、なくてもいいかなと思って(笑)。英語配列も相まって、セキュリティーが高まってます(笑)」(三津原氏)
タッチタイピングができる人であれば、確かに理屈として文字刻印は必要ない。だが、わざわざ消してしまうというのが実に三津原氏らしい気がしました。プログラマーを目指す人はとくに参考にしなくてもいいと思うが、筆者自身はとても好きなエピソードなので、最後に記しておきたいです。