Pac-Man
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ゲーム

【ビデオゲーム温故知新】『パックマン』:アーケードとビデオゲームを世界に解放した日本製クラシック

40周年を迎えた日本製クラシックアーケードゲームの開発経緯と世界に与えた影響をあらためて学ぶ。
Written by Chris Higgins
読み終わるまで:9分Published on
2020年、世界中のゲーミングファンから愛されてきた『パックマン』生誕40周年を迎えた。
今やレトロゲームヒストリーの大きな柱の1本となっているこのゲームのイエローカラーの主人公とゴースト4匹が存在しなかった世界を想像するのは難しい。
しかし、このゲームが発表された1980年5月22日の時点で、ナムコ現バンダイナムコエンターテインメント)は自分たちが世界に衝撃をもたらす運命にあるとは露ほども思っていなかった。誰もが知っている通り、岩谷徹によって生み出された『パックマン』はゲーミングのグローバルホビー化の嚆矢になるのだが、このゲームは世界を目指して開発されたわけではなかった。
今回は、『パックマン』がゲーミングワールドを永遠に変えるまでの経緯を簡単に追っていくことにする。
岩谷徹はビデオゲームのヒットタイトルを生み出すためにナムコへ入社したわけではなかった。
入社前の岩谷は、父親と同じエンジニアの道を歩もうとしていたが、若者らしい遊び心に溢れる人物で、ピンボールマシンを好み、当時の友人たち曰く「ノートは漫画やイタズラ書きで埋まっていた」。
そして、東海大学工学部を卒業した岩谷は自分の遊び心を現実に変えたいという思いで、アーケード業界のトップ企業だったナムコに入社したのだった。
岩谷が入社した1977年のナムコは、デパートの屋上に設置するコイン式電動遊具が主幹事業で、ビデオゲームは1974年にアタリからライセンスを購入していた『ブレイクアウト / ブロックくずし』しかなかったが、このシンプルなゲームが日本国内で人気を獲得したため、ベーシックなプロジェクターを使用した初期光線銃ゲームを含むビデオゲーム事業に力を入れるようになっていた。
米国のアーケード

米国のアーケード

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一方、岩谷は、自分が好きなピンボールマシンを開発することでナムコのアーケードビジネスをさらに成長させたいと思っていた。しかし、ピンボールマシンには権利関係の問題がいくつかあり、ナムコも未来のヴィジョンを明確に持っていたため、岩谷はビデオゲーム開発に回ることになった。
岩谷には、コンピュータープログラミングを正式に学んだ経験はなかった。しかし、大学在学中にある程度独学で学んでおり、さらにはナムコのプログラマーとして働いていた石村繁一からの助けもあり、1978年ナムコ初の自社開発ビデオゲームのリリースにこぎつけた。
そのナムコ初のオリジナル業務用ビデオゲーム機『ジービー』は、ピンボールとブロックくずしを組み合わせた実に岩谷らしい作品だった。
プレイヤーは筐体側のロータリーノブで画面上のパドルを操作しながらボールでブロックを消していくのだが、画面中央にはピンボールマシンで良く見られるバンパーのようなものが配置されており、これらにボールを当てればスコアが追加されるようになっていた。
『ジービー』は世界的ヒットにはならなかったが、スマッシュヒットになり(販売台数は約10,000台)、続編の『ボムビー』『キューティーQ』が開発された。
1979年にリリースされたシリーズ第3弾『キューティーQ』は、岩谷が単独で開発した作品ではなかったが、彼の次作に大きな影響を与えることになった。
当時のナムコで同じく開発を担当していた横山茂(のちに『ギャラガ』を開発)が、“ピンボールマシン+ブロックくずし” のフォーマットにかわいくてシンプルなキャラクターを組み合わせたこのゲームで、岩谷はキュートなグラフィックデザインを担当した。
この仕事が、岩谷に野心的な作品を開発することを決意させた。
『パックマン』

『パックマン』

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1970年代後半、騒々しいアーケードを視察していた岩谷は、この空間に何があり、何がないのかを徐々に理解するようになっていった。
当時のアーケードは、ディスプレイが光を放ち、ハイトーンな電子音がサウンドトラックを提供し、筐体が所狭しと置かれている、巨大な暗闇の迷路だった。
アーケードに通ったことがある多くの人たちはノスタルジックに思うかもしれない。しかし、岩谷はこのような当時のアーケードを交流や会話には向いていない環境だと感じていた。
また、当時のビデオゲームはシングルプレイヤー専用で、その多くがシューティング、レーシング、スポーツのいずれかだった。アーケードの暗い通路を埋めていたのは、岩谷が男性専用と判断していたゲームばかりだったのだ。
そこで岩谷は、女性やカップルを含む当時のアーケードゲームのメインターゲットではない客層を引きつけるゲームを開発し、アーケードの雰囲気を明るくしたいと考えるようになった。
この目標を実現するために、岩谷は世間の声を集め始めた。女子学生や若い女性たちが集まっているのを見かければ、近づいて彼女たちが何を話しているのかを聞こうとしたのだ。
そして、そのようなチャンスの多くがレストランやカフェで女性グループの隣に座った時に訪れていたため、岩谷は若い女性は食べ物について良く話しているという結論に辿り着いた。
こうして、これこそが女性たちのハートを掴む方法だと信じた岩谷は、食べ物をテーマにしたビデオゲームのアイディアを考え始めるようになった。
岩谷はキャラクターが動き回って画面内に配置されている様々な食べ物を食べていくというアイディアを軸に色々と試していったが、何かが不足していた。その時に彼が思い出したのが、暗い迷路のような当時のアーケードだった。不足していたピースが埋まり、すべてが噛み合った。
1980年代のアーケードシーンを牽引した『パックマン』

1980年代のアーケードシーンを牽引した『パックマン』

© Lady Escabia/Pexels

次に、『キューティーQ』のキャラクターをベースにして、のちに “パックマン” として世界的に有名になるプレイヤーキャラクターが生み出された。
パックマンは、アイスホッケー用パックからピザひと切れを抜き取ったようなデザインをしていたが、これは漢字の “口” から徐々に発展したものだった。また、名前はアイスホッケー用パックではなく、食べる時の日本語の擬音「パクパク」から取られた。
こうして、プレイヤーキャラクターが食べ物を食べながら迷路を動き回るようになると、次に岩谷と開発チームは難度を高めるための工夫を考え始めた。
このプロセスで生み出されたアイディアのひとつが、プレイヤーがルート変更を考えなければならなくなる敵キャラクターの追加だったが、プレイヤー層拡大という目標が定められていたため、敵にもかわいいデザインが用意されることになった。
そこで岩谷は、『キューティーQ』に登場するゴースト “ミニモン” のデザインと、テレビで放映されていたアニメキャラクター “キャスパー” の人気を組み合わせ、かわいくてキュートなゴーストデザインを生み出した。
また、「かわいい」を徹底的に追求しようとしていた開発チームは、ゴーストたちに個性も与えることにし、ナムコ創業者で当時の社長だった故・中村雅哉からの「ややこしいのでゴーストの種類を減らせ」というリクエストを開発チームの調査結果を理由に却下してカラーリングが異なる4匹を用意した。
ゴーストたちの個性は最初期AIのひとつとされている彼らのプログラミングによるものだ。
プレイヤーの行動と位置によってそれぞれ異なる反応をするようにコーディングされていたゴースト4匹には、反応パターンにちなんだ名前とニックネームが付けられており、オイカケ(アカベエ)、ピンクマチブセ(ピンキー)、キマグレ(アオスケ)、オレンジオトボケ(グズタ)となっている。
ちなみに英語でも名前とニックネームが用意されており、それぞれShadow(Blinky)、Speedy(Pinky)、Bashful(Inky)、Pokey(Clyde)となっている。
また、英語版はタイトルも『Pac-Man』に改められた。日本名の英語表記は『Puckman』だが、いたずら好きの少年・少女たちが筐体のタイトルを『Fuckman』と書き換えてしまう可能性が高いため変更された。
次に、岩谷はゴーストたちに逆襲できるチャンスをプレイヤーに与えたいと考えるようになった。しかし、岩谷は女性を含む非暴力的な客層にこの作品をアピールしたかったため、逆襲方法が強烈過ぎてはいけなかった。
こうして生み出された “パワーエサ” は、アニメ『ポパイ』に登場するほうれん草を食べてパワーアップする主人公ポパイから着想を得ている。
日本の女性やカップルをメインターゲットに据えていた岩谷は、当初『パックマン』がグローバルヒットになることは予想していなかった。実際、日本国内でも最初はヒットしなかった。ナムコが1979年にリリースした『ギャラクシアン』の方が、男性をメインターゲットにしていたことでより高い人気を獲得していた。
しかし、1980年秋に『Pac-Man』として米国で稼働されるやいなや大ヒットとなり、その年が終わる頃には10万台以上が売れ、総額10億ドル超の25セントコインを飲み込んだ。
『パックマン』が遺したレガシーの大きさは否定できない。
このゲームは画面上の迷路を攻略するというひとつの新しいジャンルを生み出した。id Softwareの設立者で『DOOM』シリーズの生みの親として知られるジョン・ロメロは、『パックマン』がゲームデザイナーを目指す最大のインスピレーションになったとしており、プレイヤー視点は異なるものの『DOOM』シリーズや『ウルフェンシュタイン』シリーズで同様の迷路を用意した。
これらを含む初期FPSタイトルの多くが "迷路" を採用していることを踏まえると、『パックマン』がなければ、『コール オブ デューティ』シリーズ『バトルフィールド』シリーズが今のようなゲームにはなっていなかったとも言えるだろう(『パックマン』が非暴力的なゲームを目指していたというのは皮肉だが)。
また、イエローの主人公は様々な他のビデオゲームにカメオ出演しており、『スマブラSP』にも参戦している。
しかし、『パックマン』最大の功績は、ゲーミングカルチャーを閉所恐怖症的空間の外側へ連れ出したことだろう。
幅広い層にアピールした『パックマン』はグローバルなライセンスビジネスとして成功を収めた初めてのビデオゲームとなり、いくつもの家庭用ゲーム機やプラットフォームに移植された。
そして、アーケードカルチャーを煙たくて薄暗い迷路から解放して一般家庭へ向かわせたこの作品は、多くの新しいプレイヤーたちに永遠のゲーミング愛を植え付けることになった。
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