クライミング
ジミー・チン:映画『フリーソロ』を撮ったトップクライマー兼映画監督のすべて
ドキュメンタリー映画『MERU / メルー』と『フリーソロ』をエリザベス・チャイ・ヴァサルヘリィと共同監督したことで知られるアカデミー賞映画監督のキャリアと魅力を探る。
ドキュメンタリー映画監督、撮影監督、『ナショナルジオグラフィック』フォトグラファー、The North Faceクライミングチームベテランメンバーなど、マルチに活躍するジミー・チン。
ドキュメンタリー映画『MERU / メルー』と『フリーソロ』を共同プロデュース・共同監督した妻エリザベス・チャイ・ヴァサルヘリィと子供2人と生活している彼は、家族と仕事とのバランスを取りながら合間を縫って雪山へ向かい、メンタル&フィジカルレベルを維持している。
「毎日バックカントリースキーをしていますが、現状を踏まえてメロウで安全なレベルに抑えています」とチンは語っている。
クライミングを始めたきっかけ
現在、ジミー・チンという名前は世界最高のアドベンチャーフォトと同義だ。
ビッグウォールクライマー兼スキーマウンテニアアスリートのスキルに "センセイ" たちからの教えと自己鍛錬を重んじる姿勢を組み合わせることでワールドクラスのフォトグラファーになったチンだが、Instagramのフォロワー270万人という世界的な人気は短期間で生み出されたものではない。
彼は、大学卒業後にクライミング修行の旅に出た後、24年という長い時間をかけて自分のキャリアを育ててきた。社会規範から距離を取ろうとしたチンは、スバルの1980年製ワゴンで7年生活した。
ベストセラー作家ジョン・クラカワーは、チンのショーリールの中で次のように語っている。
「ジミーがいかに優秀なクライマーかということを私たちは見逃してしまいがちだ。なぜなら、ジミーのアートに意識を持っていかれるからだ。そしておそらく本人はそうなることを望んでいて、そうなるように仕向けている」
「エベレストでのスキー滑降を撮影するために現地へ向かったジミーは、撮影対象のスキーヤーたちよりもスキーをこなしていたくらい優秀なんだ」
クライミングヒストリー
チンのデビューフォトは1999年に撮影された。900mオーバーのビッグウォール、エル・キャピタンを登攀したあと頂上で朝日を楽しんでいた彼は、そこから身を乗り出して寝袋にくるまっている友人ブレイディ・ロビンソンを撮影した。この1枚が、チンのフォトグラファーとしてのキャリアをスタートさせた。
ロビンソンがこの写真をアウトドアブランドのMountain Hardwearに500ドルで売り、チンはその半分を得た。こうしてチンは写真の世界に魅了されていき、同時にクライミング遠征生活が始まった。
1999年、ロビンソン、エバン・ハウ、ダグ&ジェド・ワークマンとパキスタンのカラコルム山脈へ向かった彼は高さ1,219mのビッグウォール、ファティ・ブラック(Fathi Brakk)の初登に成功した。また、2000年もロビンソン、デイブ・アンダーソン、ステフ・デイビスとカラコルム山脈を再訪し、16日をかけてタヒル・タワー(Tahir Tower)初登を記録した。
そして2001年、チンは当時のThe North Faceクライミングチームのキャプテン、コンラッド・アンカーとヨセミテで運命の出会いをする。この出会いをきっかけにアンカーから教えを受けるようになったチンは、同年にパキスタンのK2に挑むが、残念ながら失敗に終わった。その後、彼はパタゴニアでセロ・トーレに挑んだが、こちらも悪天候に阻まれて完登できなかった。
パタゴニアのあと、チンは西アフリカのマリへ向かうThe North Faceのクライミングトリップに加わり、砂漠にそびえる自立岩の中では世界で最も高いカガ・トンド(Kaga Tondo:762m)完登を写真に収めた。
さらにチンはチベット・チャンタン高原で絶滅が危惧されているチルー(チベットカモシカ)の生態を追う『ナショナルジオグラフィック』の遠征にも参加した。この遠征は、それまでビデオカメラを触ったことがなかった彼の撮影監督デビューになった。
また、この遠征にはフォトグラファーの故ギャラン・ローウェル、アンカー、そして作家のリック・リッジウェイも参加していた。リッジウェイはこの遠征を著作『The Big Open: On Foot Across Tibet’s Chang Tang』にまとめた。
アンカーは、チンのハードワークと中国語のスキルがチベット遠征の大きな助けになったとしており、「ジミーが中国語を話せて、現地のしきたりを理解していたから、面倒な役所関係をクリアすることができた」と語っている。
落命の危機
2002年、エベレスト初登頂を目指したチンは高さ2,743mのテクニカルな北壁にクライミングとスキーで挑んだが、遠征チームの頭上で氷が崩れ、そのひとつが当たった彼はクレバスが多い氷河の中で命を落としそうになった。
これがきっかけで遠征チームは登頂を断念したが、チンはエベレストを題材にしたユニバーサル映画の写真撮影のために2004年に現地へ戻ると、デビッド・ブリーシャーズ、エド・ベスターズと共に初登頂に成功した。
また、チンは2006年にキット・デローリエと彼女の夫ロブ・デローリエと共にエベレスト山頂からスキー滑降に挑んで米国人初の偉業を達成し、さらに翌年も、ジョージ・マロリーの遺体を発見したアンカーの1999年のストーリーを下敷きにした映画『The Wildest Dream』の撮影のためにエベレストへ向かった。ジョージ・マロリーは1924年にエベレスト登頂を目指したが、山頂から244mの地点で消息を絶っていた。
そして2011年、チンは再び命の危険に晒された。ワイオミング州ティートンでのスキー中にレベル4の雪崩(最高レベルは5)に襲われたチンは、610m下まで運ばれてしまった。彼はNet Geo Liveの中で「山全体が僕の背後で崩れたんです」と振り返っている。
雪に飲み込まれたチンは、崖2つ下まで放り投げられたあと、一度浮上したが、また雪に飲み込まれて麓付近まで落ちた。それでもなんとか生還した。
命を取り留めた彼は「僕と一緒だったジェレミー・ジョーンズとグザヴィエ・ドゥ・ラ・リューは、僕が死んだと信じ込んでいました」と振り返っている。
その後、雪崩に痛めつけられた身体を癒すために、チンはティートンを去ってメキシコまでサーフトリップへ出掛けた。メキシコの温かい海はボロボロに痛んでいた身体を癒す助けになった。チンは当時のコンディションを「アメリカントラックに何回も轢かれたような感じでした」と語っている。
偉業達成
同年後半、チン、アンカー、レナン・オズタークの3人は、世界で最も難しいクライミングルートのひとつに数えられているガルワール・ヒマラヤのメルー中央峰(6,309m)シャークス・フィン(Shark’s Fin)の初登頂に成功した。
アンカーにとっては3度目、オズタークとチンにとっては2度目となったこの挑戦を追ったドキュメンタリー映画『MERU / メルー』は、サンダンス映画祭の観客ドキュメンタリー賞を受賞した他、2015年のドキュメンタリー映画最高興行収入記録を更新し、同年のアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞最終候補にも選ばれた。
今でも自分のことをただのクライミングとスキーの大ファンだと思っています。フォトグラファーや映画監督の仕事はアルバイトのようなものです
2017年もチンは遠征を重ね、南極大陸のドロンニング・モード・ランドへ向かい、アンカーと共に標高1,219mのウルベタンナ初登頂に成功した。チンは『Men’s Journal』のインタビューで「コンラッドとは15年以上一緒に登山してきたので、以心伝心なんです。ウルベタンナは遠征の魅力がすべて詰まっていました」と語っている。
また、アンカーは次のように続けている。「ジミーと登るのは本当に最高だ。彼の冷静さは素晴らしいし、登山への取り組み方も魅力的だ」
そして2018年、チンは、ロープを使わないクライミング “フリーソロ” でエル・キャピタンに挑んだアレックス・オノルドを追ったドキュメンタリー映画『フリーソロ』を公開した。妻のエリザベス・チャイ・ヴァサルヘリィと共同監督したこの作品は英国アカデミー賞とアカデミー賞で最優秀長編ドキュメンタリー映画賞を受賞し、エミー賞も7部門制覇した。
米国のアウトドアメディア大手『Outside』が「史上最高のクライミング映画」と評した『フリーソロ』は、米国内の興行収入が3,000万ドル(約32億2,500万円)を突破する大ヒットとなった。