ブランズハッチで6輪車Tyrrellをドライブする
© Gillfoto
F1

【モータースポーツヒーローズ】ロニー・ピーターソン

F1史上屈指のマシンコントロール能力を有していた元祖スーパー・スウェードの足跡に再び光を当てる。
Written by Greg Stuart
読み終わるまで:6分Published on
ブラック・ビューティと謳われたLotus 72を駆るピーターソン

ブラック・ビューティと謳われたLotus 72を駆るピーターソン

© Rainer W. Schlegelmilch/Getty Images

ロニー・ピーターソン独特の派手なスライド走法は、現代のフォーミュラカーはもちろん、1970年代当時においても、必ずしも最速ではなかった。
ピーターソンが一貫して好んだF1マシンのドライビングはこうだ。まず、コーナーに進入したらエイペックスに向けてマシンのノーズを向ける。それとほぼ同時にスロットルを踏み込み、リアタイヤを滑らせつつ最適なドリフト角を決めたら、コーナー出口へ向かってスロットルをさらに踏み込んでいく。言葉で説明するよりも、まずは以下のGIFムービーで彼の典型的なコーナーの攻め方を実際に見てもらう方が早いだろう。
彼のドライビングは、少なくとも観客にとってはワイルドであると同時に、バレエのように洗練されたムーブメントを感じさせるものだった。実は、驚くことにロニーと同じオレブロ出身のラリードライバー、スティグ・ブロンクビストも後輪駆動のラリーマシンをほぼ似たような方法でコントロールしていた。
ピーターソンのドライビングスタイルは当時のF1界に困惑と憤慨、そして強烈な印象を等しく残した。F1マシンのドライビングに関して、おそらくは最も博識で分別のある視座を持ち合わせているはずのジャッキー・スチュワートでさえ、以下のようにロニーを回想している。
「私は、ロニーが成熟したひとりのレーシングドライバーに必要なメンタル面の重要性をしっかり自覚していた人物には思えない。しかし、私は彼の能力を大いに尊敬している。とりわけ1973シーズンはそうだったが、私の前を走ってコーナーへ猛然と飛び込んでいく彼の後ろ姿を見るたびに、『おいおいロニー、今度ばかりは突っ込みすぎだろう。こりゃコースアウト必至だな』と思ったものだ。ところが、彼はなぜか毎回マシンの姿勢を立て直して平然とコーナーを抜けて行った。彼が観客たちの一番のお気に入りだった理由は、私にもよく分かる。なにしろ一緒にレースを戦っていた私から見ても、ロニーのドライビングはとびきりエキサイティングだったからね」
ロニーがいかに観衆に愛されていたかを物語るエピソードをひとつ紹介しよう。1973年イギリスGPでの観戦チケットの売れ行きは凄まじく好調だったが、当時のレポート記事を紐解くとこんな一文が書かれている。「ウッドコート・コーナー(訳注:イギリスGPが行われるシルバーストン・サーキットの名物コーナーのひとつ)でLotus 72をドリフトさせるピーターソンの姿を目撃するだけでも、観戦チケット代金に十分見合うものだ」
シルバーストンでLotusのコックピットに身を沈めるロニー

シルバーストンでLotusのコックピットに身を沈めるロニー

© Lawson Speedway

ロニー・ピーターソンは1944年2月14日にスウェーデンで生を受けた。物腰柔らかな口調で話し、はにかみ癖のあるロニーはスウェーデンでは伝統的なモータースポーツであるラリーをあえて避け、カートでキャリアをスタートさせる。やがて1963年と1964年にスウェーデンの国内カート選手権を連覇した後、本格的な4輪レースに進み、1969年のF3選手権を制したあと、英国のMarchチームからF1デビューを果たした(F1デビュー後もF2に掛け持ちで参戦していたロニーは1971年にMarchでF2チャンピオンを獲得している)。
当然ながら、ピーターソンの独創的なドライビングスタイルには強烈なスピードも備わっており、1971年、彼はこのシーズンのチャンピオンであるジャッキー・スチュワートに次ぐ選手権年間2位の成績を残した。翌1972シーズンはMarchの失敗作マシンに悩まされ、コーリン・チャップマン率いる名門Lotusへの移籍を決意。1976年はMarch/Theodore、そして1977年にはTyrrellで6輪車P34のステアリングを握ったものの、1978年には再びLotusへ復帰した。
オーバーステアを愛したピーターソンのドライビングはファンから尊敬を集めたが、これが原因で生涯成績が123戦10勝・表彰台フィニッシュ26回という控えめな記録に終わったという見方もできる。
ブランズハッチで6輪車Tyrrellをドライブする

ブランズハッチで6輪車Tyrrellをドライブする

© Gillfoto

残念ながら、彼の最後となった123戦目のレースについて語らねばならない。1978年のイタリアGPを前に、Lotusのチームメイトだったマリオ・アンドレッティのチャンピオン確定は目前に迫っていた。ピーターソンは、親友でもあるマリオのチャンピオン確定へ向けて援護すべくパレードラップを終え、モンツァの5番グリッドにマシンを停止させてスタートの瞬間を待った。
しかし、緊張と高揚感ですっかり興奮しきっていたレーススタート担当者は、グリッド最後尾のマシン群が所定の位置に停止する前にスタート・フラッグを振ってしまうというミスを冒してしまった。慌ててマシンを加速させるドライバーや状況の混乱を判断できずそのまま停止したままのドライバーなどで、モンツァのホームストレッチは途端にカオスへと陥った。
結果、ピーターソンはジェームス・ハントとリカルド・パトレーゼの大きな接触事故に巻き込まれた。パトレーゼのArrowsがピーターソンのLotus 78を弾き飛ばし、マシンはフロント部分からコース脇のガードレールに激突。すぐにマシンを降りてピーターソン救出に向かったハントはピーターソンの脚部がひどく損傷しているのを確認すると、痛めた脚になるべくストレスをかけないように壊れたLotusからピーターソンの身体を引き上げた。当時ロニーの意識ははっきりとしており、彼はそのままミラノ市内の病院へ搬送され、事故現場からLotusのピットへも「彼はおそらく大丈夫だろう」という情報が伝えられた。
このピーターソンのリタイヤにより、アンドレッティの1978年チャンピオンが自動的に確定。Lotusチームは1961年フィル・ヒル以来となる米国人ワールドチャンピオンの誕生をレース終了後静かに祝った。
親友だったロニーとマリオ

親友だったロニーとマリオ

© Rainer W. Schlegelmilch/Getty Images

しかしその夜、ピーターソンの骨折部位から脂肪粒が流れ出ると、それが血管に詰まる脂肪塞栓症を誘発して、容態は急変。結果、ピーターソンは事故翌日1978年9月11日午前10時に息を引き取ってしまった。
ちょうどその頃、アンドレッティは彼の親友の死を知るよしもないままアウトストラーダ(訳注:イタリアの高速道路)を運転していた。彼はピーターソンを見舞いに行くため病院へ向かっている途中だった。ピーターソンのケガは命に関わるようなものではなく、車いす生活を数ヶ月強いられる程度だろうと伝えられていたので、からかい半分で見舞いに行こうと考えていたのだ。しかし、アウトストラーダを降りて料金所で一旦停止したアンドレッティに料金所で働くある男がこう伝えた。「ラジオで『ピーターソンがついさっき亡くなった』と言っているぞ」
長年の悲願であったF1でのタイトルを獲得し、レース人生で最も幸福な時間を味わっていたはずのアンドレッティは一気に奈落の底へ突き落とされたような心境だったはずだ。彼が当時残した短いコメントは、ロニーの死によってレース界全体を覆った悲痛さだけでなく、レースというスポーツが本来持っている非情さをいみじくも言い表していた。
「悲しいことだけど、これもレーシングの宿命ってやつなんだ」