ミュージック

大友良英インタビュー

「あまちゃん」からノイズミュージック、音と音楽の関係性、そして彼がよく口にする「場作り」に込められた想い
Written by 青木竜太郎
読み終わるまで:9分Published on
Yoshihide Otomo

Yoshihide Otomo

© Yasuharu Sasaki / Red Bull Content Pool

ノイズミュージック、フリージャズ、サントラ制作など、様々なジャンルや形態で音楽活動をしてきたアーティスト、大友良英。2013年にはNHK連続テレビ小説「あまちゃん」の劇判を担当。同年の「第64回NHK紅白歌合戦」での出演や「第55回 輝く!日本レコード大賞」で作品賞を受賞するなどで、全国で話題を集めた。音楽活動以外でも、展示作品の創作家や2011年の東日本大震災を受けて立ち上げた「プロジェクトFUKUSHIMA!」の代表として幅広く活動している。
昨年10月23日(木)、HAL東京コクーンホールにてRed Bull Music Academy(以降RBMA)は大友良英を迎え、彼に特別にパブリック・レクチャーをしていただいた。本インタビューはそのレクチャーの直後に行われたものだ。「あまちゃん」からノイズミュージック、音と音楽の関係性、そして彼がよく口にする「場作り」に込められた彼の想いについて語ってくれた。
-2013年の紅白歌合戦の出演とレコード大賞からの一年間はいかがでしたか?
いや、もう忙しくて(笑)。去年は「あまちゃん」があったので、他の仕事断ってたんですよ。「それ来年やるね」って言ってたのが全部今年に来ちゃって(笑)。「あまちゃん」の余波で来た仕事もあるので、人生史上最高に忙しかったのかな。おまけに今手帳を無くしたので。マネージャーがいないので、マネージャー無しがこんなにキツかったの今年が初めてかな。
-今回の取材の準備でホームページの作品リストを拝見したのですが、去年から「あまちゃん」関連の作品があって、ソロ名義の作品は全く出していないですよね?
震災以降は自分個人のアルバムは出してなかったんじゃないかな。サントラ以外のアルバムを作るモチベーションが無くて。音楽を作るモチベーションがないということではなく、CDでアルバムを作る動機が今はないんです。それだったら展示作品とか、場作りのほうが面白いので。
僕の中ではCDで個人のアルバムを作るっていう時代が自分の中では終わりかけているのかもしれません。もちろん、この先も作ることはあると思いますが、たとえばサントラを作るとか、なにかのトリビュートのためにつくるとかの必要があればCDでアルバムをつくるのもありだって思うんですが、個人の作品ということになるとアルバムよりは、場を作る中で作品を作る方に興味がいってます。
-「あまちゃん」の音楽について「本来は耳を塞がられてもおかしくない音楽」だと以前お話していますが、作品を作る時に聴き手の環境や経験、コンテキストは結構意識していますか?
サントラの場合はします。一体誰が、どの層が観るか。その観る層にとってこの音楽はどういう意味を持つかは当然考えるかな。「あ、これはよく聴いた感じだ」と思うか、全く聴いた事がないと思うか。「うるさい」とか「泣けるか」というのは観る人たちのコンテキストに凄く関係があることなので。計算するとかじゃないけど、それとドラマのストーリーの両方を考えます。でも、最終的には計算じゃなく直感で作りますが。
「あまちゃん」の場合は朝、日本の一般的な人の2割が観る。年齢層は子供から大人まで、というのは当然考えるんだけど、だからと言ってそれで「お年寄りだったらこのくらいだよね」みたいな考え方は一切しないですね。どうあれ自分の中の全力をそそぐしかないですから。
-それは大友さんの劇伴以外の音楽にも当てはまることでしょうか?
いやいや、自分のアルバムを作る時はどの層に向けてとか、どう聴こえるかは考えていないですね。自身がやりたいことをやる時にアルバムというフォーマットがもう収まらないのであんまり作っていないってことかな。誰かに依頼されて作るんじゃないと中々アルバム作りにならない。
-今回東京で開催されているRBMAの広告で大友さんのコメントがフィーチャーされていますが、ここで言う『「きっかけ」を作るのがオレの作曲。』はご自身の活動にも当てはまることなのでしょうか?
ケースバイケースですけどね。ただ自分の作品のために誰かを利用するみたいなもんにはしたくないんです。もちろんなんであれ自分の作品の一部にはなっているんですけれども、重要なのは音楽が生まれる場みたいなものを、一人で作るのではなく、参加した人みなで作る事だと思っているので。主人公はそこにいる一人一人だって思ってるんです。綺麗ごとで言っているのでもなんでもなくて。だから「自分の音楽をどう伝えるか」みたいな発想は全然していないですね。場が機能するために、音楽をどう役立てるかとしか考えていないかな。
歌詞がある音楽だったらメッセージを伝えることも出来るじゃないですか。例えば愛とか平和とか、あるいは個人のドラマとかいろいろあると思うけど。でも、そんなものを伝えたいとは1ミリも思ってないんです。個人の中で考えている事を伝えるとかは、僕の場合、どうでもいいというか、あまり興味ないんです。それだったらiPhoneで電話すれば良いんだもん。そういうことより、どう場を作っていくか、そこでどう音楽が機能するか、どう場がグルーヴしていくかとか、そんなことばかり考えてます。何かを伝えることじゃなく、そうやって場を作って行く中で、一人一人がなにかを発見していく、見つけて行くことのほうに興味があります。
-大友さんが尊敬しているアーティストの音楽を広める「きっかけ」を作るお気持ちはあるんでしょうか?
いろんな音楽家を紹介したいなって気持ちはもちろんありますよ。自分の創作活動ってことではなくて、メディアでの活動の一つとして(笑)。今あまりにも音楽の紹介され方が偏っていると思っているので。偏っていると同時に情報だけが山のようにあるので、多少の紹介者は必要だろうと。だからテレビとかラジオとか出た時にそういうのが紹介できればとは思っています。でもそれと自分の音楽活動とはまたちょっと切り離して考えているかな。
-「題名のない音楽会」ではノイズミュージックを紹介していましたよね。
あれはテレビを見てるみなにノイズを聴いてほしいと思ってやったわけでは全然ないですよ。そうじゃなくて、「こういうのが良い音楽だ」という強い前提のある場所が気に食わないんです。そうじゃない音楽もあるわけだから。自分が理解してるもの以外のものがあることに、非常に不寛容な社会が、今、生まれつつあるように思うんだけど、そういうもに対して、自分の居方を明確にしたいなって思うんです。この世には自分の知らない異界があるって意識することって本当に必要だと思うんです。
-レクチャーでも少し触れた、小学校の音楽教育を変えるお話とも繋がっていますよね。
今の音楽教育がダメって言ってるんじゃないですよ。ただ、選択肢が少なすぎると思うんです。一つの方向ででしか良い物がないというのがおかしいと思っているので。震災前は、社会のこととか、そこまで気にしなかったんですけど、でも震災後は自分の意見を言おうって思うように決めたっていうのが正直なとこかな。余計なお節介をしているのかもしれないけど(笑)。
-今回世界中が注目しているRBMAですが、外国の方に「なんで日本ではノイズミュージックがこんなに盛んなんですか?」と質問されることが多いです。大友さんはこれについて何かご意見はありますか?
まず大前提として本当に盛んなのかどうかわからない(笑)。ノイズミュージックは世間的にはポピュラーでもないし、盛んって言われたらアメリカだって盛んだと思うけど。ただ、色んな音楽が日本発祥じゃないものが多いと思うけど、ノイズは間違いなく日本が発祥の地の一つではあるけどね。
なんでこんなものが生まれたかと言えば、まあ、いろんな説があるとは思うけど、僕自身は、日本の人がロックやフリージャズを誤解して受け取った結果だと思っているんですけど。もともと日本でそういう音楽を聴くときにはオーディオ装置で大きな音量で聴くことが多くて、しかもものすごく集中して聴くわけじゃない。録音されたそういうものを聴いて、僕らは実際よりも巨大な音で激しい物という風に脳内で受け取ったんだと思います。それを僕らはライブで再現しようとするときに、日本の狭い開場ででっかいアンプで音を出したわけで。日本ってライブやる会場が基本的に狭いですから、他の国より。だけどフェンダーのツインリバーブの大きさは一緒でしょ。そうしたら相対的にでかい音になるんじゃない?という答えをよく海外のインタビューではしてるけどね。でも正直、本当にところはわからないなあ。
だた一つ言えるのは、日本には他の国と違うアンダーグラウンドの発祥の歴史があって。それはアカデミズム、現代音楽とは全然違うところで、第二世代、第三世代に受け継がれて行ったので。その中でちょっと変わった物が生まれたってことはあるような気がする。
-最後に、大友さんにとっては「音」と「音楽」の関係性はどういうものでしょうか?それぞれ別物ですか?
その質問自体が、成り立たないと思ってる。どんな音でも音楽になる可能性もあれば、音楽にならない可能性もある。どんな音だろうが、どんな音楽であろうが、音楽になる可能性もあればノイズになる可能性もあるし、それ以前にただ無視されるだけの可能性もある。そもそも「これは音だ」、「これが音楽だ」「これはノイズ」なんて定義はないんです。音の姿だけからはそういったものは定義出来ないですから。聴く人のおかれた状況やコンテクストで、同じ音でも全然意味がかわる、ただそれだけのことだと思ってます。
-「音」が「音楽」に変わる瞬間は大友さんの中にはありますか?
自分個人の中であるかといわれれば、それはもちろんあります。でも、それはもう究めて個人的な物でしかないと思っている。普遍化は出来ないですよ。だから「この音は音楽だ」と言ったら終わりのような気がする。こっちからその答えは絶対言いたくないし、答えなんか本当に無いですから。ただ、同じ音でもそれが音楽だと聴こえるようになるのに「場」というものが重要で、今はそこに一番興味があるんです。
例えば、ここにあるこのペットボトルの音も、今だったら取材の録音の邪魔になるだけでしょ。これは音楽じゃないけど、これが音楽になるような場を作ることだって出来ると思っている。凄い良い音だったり、感動する音楽に聴こえるようにする事だって出来かもしれない。それは騙す事じゃなくて、これが良い音で響くような何かを作れば良いわけで。それが僕らの仕事だし、逆にこれが世にも不愉快な音に作るのだって僕らの仕事。音自体に最初からこれが音楽だとか、音楽じゃないなんてメッセージはないと俺は思うかな。