ゲーム

ソニックが生まれるまで

マリオの話はまた今度。ビデオゲーム最速キャラクターの驚くべき誕生秘話
Written by Sam Pettus
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The making of Sonic the Hedgehog

The making of Sonic the Hedgehog

© Sega

Kickstarter では新たにハードカバー版『 Service Games: The Rise and Fall of Sega』の出版キャンペーンが始まった。本書には、 任天堂とセガが 1990 年代の初頭に繰り広げた熾烈な戦いや、それが伝説的ゲームキャラクターの誕生に繋がった経緯が記されている。
全面戦争の舞台は、1990 年までには整っていた。当時 Nintendo of America を率いた荒川實氏によると、アメリカにおける同社のシェアに対して、先に手を出してきたのはセガだったという。しかし Sega of America の Tom Kalinske 氏によると、デベロッパーに NES(ファミコン)での独占リリース契約を求めるヤクザまがいの手法でアメリカ市場の独占を試みたのは、任天堂のほうだという。
理由が何であれ、原因が何であれ、両社はリングの中央でがっちりと組み合い、互いに相手をマットに叩きつけようと決意していた。すでに圧倒的なリーチ、体格、体力を備えていた任天堂。一方、失うもののない戦士さながらに闘志をたぎらせ、勝つためには手段を選ばない覚悟のセガ。ゲーム産業における 400 キロ級のゴリラじみた巨人を前に、セガは 2 つの切り札を用意していた。企業マスコットと独自のマーケティング戦略である。そう、企業のマスコットは任天堂のマリオに見られるように、一目でそれと分かり、企業そのものと結びついていて、しかも最高にブッ飛んだゲームの主人公でなければならない。
セガはマーケティングの面でも新しい広告キャンペーンを展開する必要があった。自分たちがどんな企業であるかを、わずか十数秒で一般の消費者に伝えなければならない。一石二鳥を狙うセガは、まずマスコットを先に公開し、そのうえで同社のハードウェアむけに最初のキラータイトルを開発するつもりだったのである。マリオとの決戦の時が迫っていた。
当時セガ代表を務めていた中山隼雄氏は、言うなれば非常に周到なプランナーだった。任天堂のマスコットに挑戦するにあたってはスタッフを動員し、あの冴えない配管工がなぜそこまで愛されるのかを、あらゆる側面から詳細に分析させたのである。任天堂が メガドライブの登場を単なる反抗に過ぎないと捉えていたのだとしたら、実際のセガは遥かに過激だった。同社が作り上げたマスコットは、任天堂の小太りな代弁者にないものを全て持っていたからだ。
スーパーマリオワールド

スーパーマリオワールド

© http://www.flickr.com/photos/docosong/3430221488/sizes/o/

米国での初期の売り上げ情報が入り始めても、中山氏は全世界のセガ開発チームに指示を出し続けた。マリオに対抗しうるマスコットとゲームを生み出すにあたって、彼の指示は非常に徹底したものだった。新しいマスコットは、マリオのように記憶に残るものにすること、ただし可能なかぎり差別化を図ること。また、新しいマスコットはこれまでにないキャラクターでなければならず、登場するゲームも同様であること。そして何より、新しいマスコットは絶対に、何があろうと、可愛いキャラクターにしてはならない、とされた。
我々はマスターシステムで、すでに何人ものセガヒーローを生み出していた。アレックスキッド、ワンダーボーイ、忍… 彼らがプラットフォームの成功に貢献したことは間違いない。新たに登場したメガドライブでも、プラットフォームを象徴するキャラクターを生み出すことは必然だった…
- セガ プロデューサー 金成 実
さまざまな案が提出されては没になっていったが、あるアメリカ人スタッフの案は採用寸前にまでこぎ着けた。プログラマーである Mark Voorsanger 氏が提案したのは「トージャム」および「アール」という 2 人のファンキーなエイリアンで、どちらも非常に粋なキャラクターだ。中山氏はこのキャラクターとゲームの企画を気に入ったが、これには 2 つ問題があった。「トージャム」と「アール」がノンビリしすぎていたこと、そしてあまりにもアメリカ風であったことである。素晴らしい提案ではあったが、中山氏が求めていたのは、あくまで全世界に通用するマスコットだった。
セガのマスコットとしては不採用になった「トージャム」と「アール」だが、その魅力は評価されてゲームの開発が開始された。少なくとも完全オリジナルのゲームとして、輝かしいメガドライブのラインナップに加わったのである。しかし中山氏の探し求める答えは、まだ見つからないままだった。彼はしばしば「ああ、うちにも宮本茂のようなスタッフがいれば!」と思ったそうである。
そんな時、彼の裏庭から声がかかった。セガ本社の第 3 コンシューマー研究部(通称 AM8 研)に所属するプログラムチームの 1 人が、あるマスコットとゲームの企画を提出したのである。これに興味を持った中山氏は、プログラムチームのリーダーであった豊田信夫氏に実際に見てみたい旨を伝え、ゲームの責任者として誰が適任かを尋ねた。豊田氏はプロジェクトディレクターである大島直人氏、主任プログラマーであった中裕司氏を引きつれて中山氏のオフィスを訪ね、それぞれの成果を見せた。そして様々な議論を尽くした後、中山氏はついにゴーサインを出したのである。その際のプレゼンテーションは傑出したもので、AM8 研の若き主任プログラマーが非凡な才能の持ち主であることは明らかだった。中山氏はついに、セガの中に宮本茂のような人材を見つけ出したのである。
中裕司氏は 1965 年 9 月 17 日、大阪府の地方都市で生まれた。賢く元気いっぱいの子供で、十代の頃は坂本龍一や彼の所属していたグループ「イエロー マジック オーケストラ」の音楽に熱中していたという。坂本龍一のシンセサイザー音楽に対する傾倒は、のちに中氏のライフワークとなるコンピューター、さらにはビデオゲームという新しい現象への興味に繋がった。しかも彼は手に入れたゲームを遊ぶだけでは飽きたらず、それを分析して仕組みを探ろうとした。そして間もなく彼は、自分でプログラムを始めるのである。
彼のような天才少年であれば日本のどんな名門大学にも入学できたはずだが、彼はそうしなかった。学歴が重視される日本においては勇気ある選択だったが、彼はパーソナルコンピューター革命が進行しつつあった時代のさなかに、4 年間も大学で過ごすつもりはなかったのである。1983 年、高校を卒業した中氏は東京に転居し、当時世界最大のアーケードゲーム企業であったナムコへの就職を試みた。だが高卒であることが足かせとなり、ナムコは彼を不採用とした。彼は諦めずに才能を生かせる仕事を探し続け、1984 年にセガの初級コーダーとして採用された。
セガにとって 1980 年代の半ばは苦難の時期であり、他の同業者たちと同じく任天堂に苦戦していたが、中氏は最善を尽くした。これは着実な仕事であり、ビデオゲームの開発こそ彼が本当に望んでいた仕事の一つだったのである。まもなくマイクロマネージメントの完璧主義者として知られるようになった彼は、一見すると些細なコーディングについても同僚と議論することが多かった。「プログラムに関してだけじゃない」と中氏はのちに語っている。「グラフィックであれデザインであれ… 私は全てに注意を払う」 中氏のそんな気質は強権的な中山氏にとって頼もしいものであったが、セガの社主が彼の名を知るのは、彼のプログラミングの成果が実を結んでからのことだった。
セガにおける中氏の最初の業績は、同社が最初に製作した家庭用プラットフォーム SG-1000 むけのゲーム『ガールズガーデン』だった。彼の優れたプログラミング能力は、その後 7 年にわたってリリースされた素晴らしいオリジナルゲームや移植作の数々を通じて実証されている。この時期に彼の名前がクレジットされたゲームには『アウトラン』や『スペースハリアー』といった伝説的な作品が含まれ、なかでも 画期的なRPGであった『ファンタシースター』は、マスターシステムにおける最高傑作として有名だ。
1988 年、彼のチームはメガドライブむけのソフトを開発することを命じられた。そしてここでも中氏は、そのプログラミングの才能を発揮したのである。メガドライブのローンチ作品 2 つのうち 1 つはアーケードからの移植作である『スーパーサンダーブレード』であり、彼はその責任者だった。そして同プラットフォームの RPG で初のヒット作となった『ファンタシースターII』の開発を委ねられたのも、他ならぬ彼であった。
この素晴らしい業績の後、彼はカプコンの『大魔界村』を移植するよう命じられたが、このときは自由時間のほとんどを費やして、メガドライブ上でファミコンのカセットを動作させる研究に没頭した。この成果はやがて世界最初のビデオゲーム エミュレーターとして完成したが、当人も予期していたとおり、発売されることはなかった。AM8 研のメンバーはこうした努力を尊敬し、彼の独自性をもっと生かしたいとさえ願った。なにしろ彼は、間違いなく天性のコーダーだったからである。
AM8 研が中山氏から新しいマスコットとゲームの企画を命じられたのは、1990 年初めのことだ。チームリーダーの豊田信夫氏と彼のスタッフは、この時期に様々なアイデアを検討している。最初に生まれたのはウサギのようなキャラクターで、伸び縮みする耳で物を持ち上げ、敵に投げつける仕様だった。だがこれは実現が難しいことが分かり、不採用となっている。
4 月頃、ラフスケッチを見ていた中氏は、同僚の大島直人氏に「とにかく何か速いやつがいいな」と口にした。大島氏は興味をそそられ、中氏も話を続けた。彼は数年前に、身体をボールのように丸めて敵に体当たりをするキャラクターを思いついていたのである。「つまりハリネズミだな」と言う大島氏に、中氏は「それだ!」と応じた。二人はそのイメージを思い浮かべて、にやりとした。中氏はこの伝説的キャラクターの誕生について、1992 年に行われた Sega Visions のインタビューでこう答えている。
当初のキャラクターはウサギのような姿で、伸び縮みする耳で物を持ち上げることができた。だがゲームがどんどん速くなっていくなかで、敵に対する特別な能力を与える必要が出てきた。そこで数年前に思いついていた、身体をボールのように丸めて敵に体当たりするキャラクターのことを思い出したんだ。ハリネズミは身体を丸めることができるから、ウサギをやめてハリネズミにしたんだよ
素早いという設定どおり、このキャラクターはその後の数日で急速な進化を遂げた。彼が青くなったのは、セガのロゴが青いからだ。また単なる丸いボールになってしまってはビジュアル的に冴えないことや、画面上でトゲを表現するのは難しいことから、ギザギザの髪型が与えられた。さらに、素早いキャラクターではあるがハリネズミ自体は決して俊敏な動物ではないことから、ランニングシューズも追加された。開発中のゲームでは、このスニーカーがいいパワーアップアイテムになる予定だったのである。
その後、中氏は AM8 研のメンバーを前に、最初期の試作バージョンでデモンストレーションを行った。青くて素早いハリネズミが画面狭しと走り回るのを、彼らは驚きの目で見つめていたという。そして「こいつはsupersonic(超音速)ですね」と漏らしたメンバーの声を、中氏は聞き逃さなかった。そう、ついにハリネズミに名前がついたのである。
ソニックの初期コンセプトアート

ソニックの初期コンセプトアート

© Sega

ソニックの初期コンセプトアート

ソニックの初期コンセプトアート

© Sega

ソニックの姿はその性格にも現れている。そのため中氏は新作ゲームを、AM8 研の新しいスターがデビューするにふさわしい舞台として作り上げた。この俊敏で生意気で小さなキャラクターが、複雑にデザインされたステージを全速力で駆け抜けるのだ。当初はパワーアップアイテムとして考えられていた赤いスニーカーは、やがてソニックには欠かせないトレードマークになった。彼は常に動き続けているので、スニーカーが欠かせないのだ。そしてソニックの能力は普通に走ることだけではない。必要とあればさらに加速できるばかりか、青いトゲトゲのボール上になっている時はそれ以上のスピードで疾走できる。
また常に動いていないと気がすまないというソニックの性格から、中氏はちょっとした仕掛けを組み込んだ。プレイヤーが操作をやめて一定時間が経過すると、ソニックはプレイヤーのほうをちらちらと見ては、苛立たしげに爪先をタップし始める。それだけではない。ソニックが走り、跳び、落ち、回転する時を含め、あらゆる動きが驚くほど詳細に描画されているのだ。動きのそれぞれに、個性的なポーズと表情が用意されている。ステージは広大でカラフルかつ非常に緻密なもので、最初から最後まで全力疾走した場合に最も楽しめるよう設計されている。
20 年におよぶソニックの歩み

20 年におよぶソニックの歩み

© Sega

中氏が作り上げたこのゼンマイ仕掛けのゲームは、しばしば「2D サイドスクロール ジェットコースター」といった表現で語られ、ソニックとマリオの違いを強調する際に用いられてきた。青くて素早いハリネズミと、そのパンクじみたトゲトゲ頭や反抗的な態度に比べれば、マリオなど小太りで遅くて、やる気のない中年野郎にすぎない、というわけだ。またゲーム世界もソニックならではのカラフルでスタイリッシュなものとなっており、悪役にもクッパよりずっと強そうなキャラクターが用意された。
ソニックの宿敵ドクターエッグマン(国外では Doctor Ivo Robotnik として知られる)は、部下を集めるのではなく作っている。中氏は「機械化の拡大」という日本らしいテーマを取り込み、エッグマンを世界全体の機械化をたくらむマッドサイエンティストに仕立て上げた。彼の手下は実はソニックの友人の動物たちで、機械の殻に閉じ込められているのだ。ソニックが得意の「スピンアタック」で殻を壊せば、彼らを救出できる。
ソニック ザ ヘッジホッグ

ソニック ザ ヘッジホッグ

© Sega

現代のゲーマーはソニックの成功を当然と考えがちだが、そこに至るまでの経緯を忘れてはらない。ソニックはマリオに対するセガの答えであり、仮に彼が大成功していなかったとしたら、 スーパーファミコンが出た時点でメガドライブの命運も尽きていただろう。セガという一企業の運命は、まさに中裕司氏と AM8 研のメンバーたちに委ねられていたのだ。そして何より中氏自身、この賭けが報われるかどうかは分からなかったに違いない。
中山氏はセガの命運を中氏に託していたが、しかし無謀な賭けをしていたわけではない。ソニックが失敗した場合に会社が直面する苦境を見越していた彼は、次のアイデアが生まれるまでの繋ぎとして、密かに 4 億ドルもの一時金を用意させていた。後年、元 Sega of America 社長の Michael Katz はこう語っている。「愚かなことをしているとは思ったが、(中氏の)ゲームは最高だったし、『ソニック』というキャラクターが確立していた。どんなキャラクターになってもおかしくなかったが、あれほど素晴らしいゲームでなかったら、あのハリネズミも静かに退場していたはずだ」
Sam Pettus 氏、David Munoz 氏、Kevin Williams 氏および Ivan Barroso 氏の共著による『Service Games: The Rise And Fall of Sega: Enhanced Edition』は、Amazon.com(米国サイト)より購入できる。 また、ハードカバー版の Kickstarter キャンペーンは 現在も進行中だ。