固定概念にとらわれない自由な表現方法で、アスファルトを縦横無尽に滑走するスケートボーダーたち。この連載では、10代から20代をスケートボードに傾倒してきたスケーターが大人になった今、どういったライフスタイルをおくっているのかにフィーチャーしたい。好きなことを一意専心に続ける彼らの背中から見えてくる“何か”を自身の生活にフィードバックできれば、きっと人生はもっと豊かになるはず。第三回目は、アーティストのKAMIに迫る。
地元・京都でスケートボードに明け暮れた少年時代
KAMIさんの軌跡を紐解く上で“スケートボード”と“アート”は大切な要素だと思いますが、まず“スケートボード”との出会いについて教えてください。
KAMI スケートボートに初めて触れたのは、中学一年生(13歳)の時です。ちょうどその頃(1988年)って、スケートボードがバンドカルチャーと密接にリンクしていた時代でもあると思うんです。そこに興味を持ち出した兄がスケートボードを始めて、それを後追いするように僕も始めましたね。
当時は、どういった場所でスケートしていたんですか?
KAMI 地元は京都なんですが、家の近くに堀川公園というちょっと有名なスケートスポットがあったんです。夜になるとそこに関西近郊の上手くて怖いお兄さん達が集まってセッションしているって噂を聞いて、僕も恐る恐る遊びに行くようになりましたね。
その当時に読んでいた“スケートボードの雑誌”は何ですか?
KAMI 一番印象に残っているのは、月間宝島から出版されていた『ラジカルスケートブック』って雑誌です。デッキのカタログみたいなものも掲載されていて“サンタクルーズ”や“パウエル・ペラルタ”、“ドッグタウン”など、色々なデッキが載っていました。それまでアメリカのコアなカルチャーに触れたことのなかった中学生からしてみると、血が滴り落ちたような絵やドクロ、脳みそなど、当時のスケートカルチャーならではといえるデザインがあまりにも過激で、かなり衝撃を受けました。
やはりKAMIさんのアートワークの原点は、スケートボードのグラフィックなのでしょうか?
KAMI かなり刺激を受けているのは間違いないですね。ただ、その時は単純にカッコイイって感覚だけ。スケートボードカルチャー全体にハマってしまったので、それほど“アート”とかは意識していなかったと思います。
この当時、好きなスケーターは誰だったんですか?
KAMI 初めて見たスケート動画が、『ポリスアカデミー4』っていう映画なんです。そこに出ていたボーンズ・ブリゲードに憧れていましたね。中でも特にランス・マウンテンが好きでした。
スケーター以外で影響を受けたアーティストはいますか?
KAMI スケートをして絵を描いてると、ストリート繋がりで自然とグラフィティにも興味が湧いてくるんですよ。中でも僕が好きだったのはグラフィティアーティストのツイスト(別名:バリー・マッギー)です。『SLAP MAGAZINE』っていうスケート雑誌(現在はSLAPというウェブ媒体)があって、確か93年くらいのイシューで彼が表紙を飾ったんです。それを見た時にグッときましたね。今までに見てきたグラフィティとは何か違うなっていうか、とにかくスタイルが独特だったんですよ。
人生の指針を大きく変えた旅とデイヴィッド(アーティスト)の存在
『SLAP MAGAZINE』を始め、海外のスケート雑誌やビデオを観て、アメリカへの憧憬はなかったですか?
KAMI もちろんありましたよ。だから18歳の時に初めてサンフランシスコへ行きました。93年かな。
どういった目的で行かれたんですか?
KAMI サンフランシスコで『バック・トゥ・ザ・シティ』っていう大きなスケートボードのコンテストがあったんです。それに京都のスケーター友達が出るってことになったので、僕も応援がてら行ったんです。サンフランシスコにはEMBっていう超有名なスケートスポットがあったので、そこを訪れるのも目的地の一つでした。その時は色々なプロスケーター達が集まっていて、街中が賑わっていた記憶がありますね。実際にツイストのグラフィティをストリートで見ることができて感動したのも覚えています。
特別な出会いみたいなものは、ありましたか?
KAMI 一番大きいのは、その大会に出場していたDAIKONくん(当時TOKYO Z-BOYSのスケーター)との出会いですね。それがきっかけで後に僕がOWNというクルーに入る流れに繋がっていくんです。
その頃の拠点は、まだ京都ですか?
KAMI はい。その旅でDAIKONくんをはじめ、東京のスケーターたちとも仲良くなって、帰国してからは度々、東京にも遊びに行く機会が増えました。それで、僕が21歳の時にDAIKONくんがOWNっていうスケートクルーを立ち上げて、僕もそのクルーに入ったんです。そのタイミングで上京しました。確か22歳の時です。
上京してからは、どういった活動を?
KAMI スケートをしながらOWN関係のグラフィックなどをやらせてもらって、方向性を模索していました。そういった環境の中で、よく同行したOWNツアーの印象が強く残っています。今でこそスケートボードのツアーって当たり前になってますが、当時はまだまだ珍しくて。OWNのツアーはその走りだったと思います。皆で一台のバンに乗って日本全国を回りながら各地のクルーと合流してデモンストレーションなんかをしていましたね。も~毎日がスケートをメインに遊び三昧の日々ですよ。怪我やトラブルがつきもので、めちゃくちゃなことばっかりになってましたけど、団体行動におけるタフさや遊び方、思考などについてもコンシャスに意識するきっかけになったと思います。とにかく、精神面での大切なことをいっぱい学びましたね。
「国籍に左右されないスタイル」の模索から生まれた現在のスタイル
スケートボードと平行してアート活動も続けていたんですか?
KAMI その時はまだまだ手探りっていうか、ただ描くのが好きなだけで、アートという方向に進むなんてイメージしてなかったですね。より本格的なものになったのは上京してから3年くらいした時かな。OWNの一連の流れで仲良くなったラスクシュ(RASKUSH)というニューヨーク出身のラスタマンがいて、その人がブルックリンに帰るってことになったんです。自分もニューヨークに行きたかったので“俺も一緒に行くよ”ってついて行ったんです。で、滞在中に友達からデイヴィッド・エリス(DAVID ELLIS)って言うアーティストを紹介されて彼の家に滞在させてもらったんです。
デイヴィッドとは?
KAMI ニューヨーク出身のアーティストです。マンハッタンにある大きなロフトのシェアハウスに住んでいて、毎日、大きなキャンバスに絵を描いたりして、とてもクリエイティブな暮らしをしていたんです。日本にいる時は身近でそういったスタイルで生活をしている人がいなかったので、すごく刺激を受けたんです。その時に漠然と“俺もこんなクリエイティブなライフスタイルをおくりたい”って思いました。
以前、インタビューさせていただいた時、KAMIさんの描く波を打つような美しいラインは、スケートボードをしている時の心地よさを表現していると仰っていました。このスタイルはいつ頃、確立されたんですか?
KAMI きっかけはこのデイヴィッドの家に滞在していた時かな。ニューヨークに滞在してる時は、毎日が新しいことの発見で刺激的な日々だったんです。ただ、吸収するばかりで、その吐き出し口を上手く見つけることが出来なくて。毎日、モヤモヤしながらステッカーに絵を描いていたんです。その時に思ったのが英語で描いても何だかしっくりこなくて、日本語で描いてもそれはそれで違うなって……。海外の人にも認識してもらえる“国籍に左右されないスタイルって何だろう?”って考えていた時に、過去の自分や生まれ育った場所、スケートを通じて見て感じてきた物などを自分なりに考え直したんですよね。そういうことがきっかけで今のスタイルが生まれたのかな。
KAMIさんの初期の代表作と言えば、ノースカロライナのタバコ納屋に描いた壁画だと思います。あの作品を描かれたのもこの時期ですよね。
KAMI そう。デイビットの実家があるノースカロライナにペイントできるタバコ納屋があるから、一緒に行って描こうぜって誘ってくれて。それが実質初めての壁画経験でしたね。その壁がきっかけになって、後で彼が中心となってバーンストーマーズっていうアーティストコレクティブが始まったんです。
ひとつの大きなターニングポイントになったわけですね。
KAMI そうですね。壁の大きさや気候など、色々と大変だったんですが、それが本当に素晴らしい経験で、人生を壁に注ぎたいと決めるきっかけになりました。その時はデイブが牛、僕が雲を描いたんですけど、何を描くべきか悩んだ末に、アジア人として、日本人としてのアイデンティティを入れ込みたいと思い、それを雲に反映させました。
バーンストーマーズは、2000年に結成されたニューヨークのアーティスト集合体ですよね。KAMIさん以外にも日本人アーティストが参加されていたとか。
KAMI そうですね。日本人やニューヨーク在住のアジア人は多かったですね。基本はニューヨークベースのアーティスト集合体で、結成したというよりは、自然に集まっていた感じでしたね。メンバーはデイヴィッド・エリスを筆頭に、BLUSTERONE、ESPO、ROSTARR、MIKEMING、KENJI HIRATA、DOZEGREEN、CHE JEN、KIKU、KR、JEST、WESTONE、EDEC、EASE、MAYA、MARTIN、MIKE HUSTON、他にも沢山参加してました。日本人だと、SASUやMADSAKI、DISKAH、NAOMI、YURI。後は、カメラマンのPAIちゃん等がいました。
この時には既にアーティスト名としてKAMIと名乗っていたんですか?
KAMI 実は“KAMI”って子供の頃からのあだ名なんです(笑)。中学生の頃にスケートをしていて、そこに遊びに来ていた小学生とスケートで鬼ごっこをしたことがあったんです。彼らに“俺のこと神様って呼べ!”って冗談で言ったのが始まり(笑)。丁度その頃、漫画のこち亀(こちら亀有公園前派出所)をアニキがよく読んでいて、両さんがロボット警察に“俺のことを神様って呼べ”ってシーンがあったんです。それをオマージュした感じ(笑)。周りにいたスケーター仲間たちも俺のことを“カミサマ”って呼ぶようになって定着していったんです。改めて名前のルーツを話すと、なんかめっちゃ恥ずかしいですね(笑)。
SASUとの出会いとワールドワイドな活躍
ゼロ年代に入ると東京の様々な場所でKAMIさんのアートワークを見かけるようになっていったと思うんですが、ある時期から、アーティストのSASUさんとの共同制作も増えていきましたよね。今となっては大切なパートナー(家族・妻)でもあるSASUさんとはどう出会ったんですか?
KAMI 出会ったのは結構前で、99年くらい。OWNのメンバーたちと参加していたAWAマガジンというフリーペーパーがあって、そこにSASUも作品を提供していた一人だったんです。そんな縁もあって存在は知っていたんですよ。仲良くなったのは、僕がNYから帰国した時かな。同じ日に彼女も住んでいたカナダから帰国したんですよ。共通の友人が空港まで2人をピックアップしに来てくれて、空港から東京までの道のりで色々な話しをしたんです。そこで、SASUがカナダにいた時にスケートパークにスプレーで描いた絵を見せてもらったりしてね。それまでは、OWNのメンバーしかり、価値観の合う人間といったらいつも男ばっかりだったんですよ。こういった活動をしている女性と出会ったのは新鮮でしたね。
HITOTZUKIは、この頃に誕生したんですね。
KAMI 当時各国でストリートアートのイベントやプロジェクトが盛んに行われていて、色々な場所に2人セットで呼んで頂くことが増えて行ったのがきっかけです。初めのうちは“KAMISASU(カミサス)”って呼ばれてたんですが、なにか二人の共同体の名前をつけようって事でお互いの本名からとった漢字を組み合わせて“日”と“月”“HITOTZUKI(ヒトツキ)”って命名したんです。結婚したのは2003年ですね。
その翌々年(2005年)には、水戸芸術館で開催された「X-COLOR/グラフィティ in japan」へ参加されたと思います。これは当時のキャリアの中で、かなり大きな会場でしたよね。それまでは、一部のコアなストリートアート好きからの支持が強かったと思うんですが、より幅広い層からも注目されるようになった転機かと思うんですが。
KAMI 日本では、そうかもしれないですね。あの時は美術館で一番大きいスペースにHITOTZUKIで描くことになったので、結構奮闘したのを覚えてます。でも、よりもっと多くの一般層にまで届くようになったのは、HITOTZUKIとして参加した六本木ヒルズにある森美術館でのインスタレーションかもしれないですね。
2010年に六本木ヒルズ森美術館で開催された「六本木クロッシング2010展・芸術は可能か?」ですよね。そこで発表された作品”THE FIRMAMENT”について、教えてください。
KAMI 簡単に説明すると、よくスケートボードでセッションになった時に、見てる人も、滑っている人も、その場にいる全員が一つに繋がってシンクロするような瞬間を感じることがあって、そこには上手い下手の技術的な部分ではなく、みんなが心から楽しんでるエネルギーというのかな。その瞬間が本当に素晴らしくて、そういう感覚やエネルギーを自分達のインスタレーションの中で巻き起こし、美術館という場所で人々に感じでもらう事が出来るのか、という試みだったんです。グラインド(スケートボードのトリック)で刻まれるダメージや、飛び散った汗、コンクリ片、スラムでの痛みや、メイク魂など、ペイントだけでは表現できない、いつもの生々しさや躍動感から生まれる美しさを感じてもらいたいという意図もありました。真ん中のSASUの描くモチーフは女性の象徴のようでもあり、その大いなる存在の上を男が我が我がと競い合うというような男女の構図を53階=”THE FIRMAMENT”/ 天空 という設定の中でやりたかったんです。
この作品(THE FIRMAMENT)は六本木ヒルズ森美術館での展示後、東京都・世田谷公園に移設。一般開放されていたが、2017年4月15日に撤収、新天地へ移設予定。
"The Firmament"
六本木ヒルズ森美術館が森タワー53階部分にあるということも作品の意図に含んで、ということですね。
KAMI 自分の住んでる場所からも森ビルが見えるので、そういう場所でやれるようになるとは思ってもいなかったという意味も込めて”雲の上”というイメージにも、すごくハマりましたね。その作品の中で実際に滑ってみると、53階というのもあって、すぐ息が上がるんですよ。本当に苦しくて、修行のようでした。裏側に酸素ボンベを置いてましたもんね(笑)。
美術館の中でスケート出来るというのも、すごいことですよね。
KAMI 他の作品との兼ね合いもあり、スケートボードを持って美術館に入る事自体も難しく、一般開放はできませんでしたが、事前申請で機会を設けてもらって数回セッションするということまでは実現できました。ですが、やはり全て理想通りには行かなかったですね。スケートボードをするという事をアートに関連付けて見せるというのは予想以上に難しかったです。予想通りのセッションにならない日もあったし、”ストリート”とか”スケボー”といった、ステレオタイプなイメージが強く、“子供の遊び”と見なされてるような感じを受けたりもしましたね。でも、ああいった大きな場所で作品を発表できたのは、すごく意味があったと思うし、いい経験になりました。
スケートボードの躍動感を彷彿とさせるような、力強く男らしいKAMIの曲線、そしてSASUの女性ならではの気配と繊細さを感じる美しい花模様のシンクロは、「六本木クロッシング2010展・芸術は可能か?」を訪れたオーディエンスに強烈なインパクトを植え付けた。それを裏付けるのが、後に展開された自動車メーカーのミニやラグジュアリーブランド、エルメスといった一流企業とのジョイントワークの数々。2010年以降のKAMIのアートワークは、日本のストリートといった小さな枠組みを超え、世界的なアーティストへと進化・成功していく。そんなKAMIは現在、「今」をどう捉え、どのように前に進もうとしているのか。第二章ではそのあたりのマインドについてお届けしたい。