スペイン人マウンテン&トレイルランナーの キリアン・ジョルネ は、キャリアを通じて素晴らしい持久・耐久系記録をいくつも生み出してきたことで知られる。 ピレネー山脈で生まれ育ったジョルネは、3歳までに初登頂を終えると、12歳でスキーマウンテニアリングを楽しむようになった。その後、2000年代に入ると、ジョルネはマウンテン&トレイルランニングシーンで台頭。そして、両シーンであらゆる世界記録を更新したあと、世界を代表する3座( マッターホルン 、 デナリ 、 エベレスト )登頂を次のターゲットに定めた。 最初の2座を簡単に片付けたジョルネだったが、3座目のエベレストには少し手を焼いた。しかし、それでも彼は酸素ボンベ、無線、ロープを使うことなくこの霊峰を6日間で2往復した。大事なことなのでもう一度書いておく。キリアン・ジョルネは 酸素ボンベ、無線、ロープを使わずにエベレストを6日間で2往復したのだ!
どうやったらこのような偉業が達成できるのだろうか? その答えは以下に紹介するキリアン・ジョルネの キャリアと哲学 の中に見出すことができる。
キリアン・ジョルネの世界一への道のりは、ピレネー山脈で過ごした幼少時代から始まった。
Kílian Jornet on Everest © Kilian Jornet
ジョルネがスペイン北東部に位置する標高2,000mのスキーリゾート、 リェス・デ・サルダーニャ(Lles de Cerdanya) で生まれ育ったという事実は、ピレネー山脈が彼の遊び場だったことを意味する。ジョルネは「子供の頃から山に登っていたから、岩や雪の上での足の置き方など、色々なことに早くから順応していった。このような順応を長年続けてきたことが僕のフィジカルトレーニングなんだ」と説明している。
自覚することなく、言葉を正しく理解する前から、ジョルネは次々と功績を成し遂げていった。その好例が、 生後18ヶ月での母親との5時間ハイク だ。
ジョルネの母親は、小さい息子と娘を連れて夜の森へ向かうとそこに2人を残して先に戻り、子供たちが無事に帰宅できるかどうかを確認する時があった。
ジョルネは「森は完全な暗闇だったので、怖いと思ったことは何度もあった。でも、実際は怖がる必要なんてなかった。ウサギやキツネのような凶暴ではない動物しかいなかったからね。だから、夜の森の散歩は、僕たちが山に住んでいるということを学ぶためのものだったんだ」と振り返っている。
大自然に囲まれて育ったことを踏まえると、ジョルネが非常に快活な子供だったという事実に驚く人は少ないだろう。しかし、ジョルネの持久力、そして コンフォートゾーン の外側へ飛び出したいという気持ち が、同じように山に囲まれて育った子供たちと彼との違いだった。 ジョルネは「12歳、13歳頃、年上の子供たちと自転車に乗っていたときに、“この登坂がずっと続けばいいのにな” と言ったことを覚えているよ。登っている感覚が好きだったんだ。 10代の頃から苦しみながらプッシュしていく感じが好きだった 」と振り返っている。
そして、ジョルネはカタルーニャ州スキーマウンテニアリング技術センター(CTEMC)に加入した13歳の時に、自分が他のアスリートとは違うレベルにいることに気付くことになった。
しかし、18歳の時、ジョルネは学校からの帰宅途中に事故に遭って怪我をしてしまった。「都市部を走るのは危険だよ。山を走る方がよっぽど安全だ」と振り返るジョルネは、その怪我の治療中に、あらゆる地形を走破する地球上で最もタフなレース群に出場して実力を試してみようと思い立った。
それから6年後、ジョルネは “予定より20年も早いペース” でそのようなレースを次々と制覇していった。なぜなら、この頃のジョルネは「45歳までに優勝できるようになりたい」という目標を立てていたのだ。
ジョルネの成功を助けてきたのが、異常とも言える VO2 Max “92” (VO2 Max:最大酸素摂取量)と 超速リカバリー能力 であることは間違いない。本人は「リカバリーが上手くできればそれだけトレーニング量を増やせる。これが僕の才能なんじゃないかな」と語っている。
子供の頃、自分の部屋にマッターホルンの大きな写真を飾っていた。あの頃からこの山に登るのを夢見ていた この頃、ジョルネは自分のルーツ “山” に戻ることを決め、マッターホルン、デナリ、エベレストを伝統的な登山スタイルで駆け上がるという壮大なプロジェクト【 The Summits of My Life】 をスタートさせた。伝統的な登山スタイルの選択は、彼が 外界との通信手段、固定ロープ、酸素ボンベを使用しない ことを意味していた。
「子供の頃、自分の部屋にマッターホルンの大きな写真を飾っていた。あの頃からこの山に登るのを夢見ていたんだ」
実は、ジョルネは友人の ステファン・ブロス がモンブランで滑落死するのを目撃して打ちひしがれていた。しかし、山へ足を踏み入れるたびにブロスが側にいてくれると信じていたジョルネは、ブロスとの思い出をインスピレーションにして、マッターホルンとデナリで登頂最速記録の更新に成功した。
こうして、ジョルネとレジェンドランナーの称号の間にそびえるのはエベレストだけとなったが、この霊峰の登頂は、すべてのチャレンジをリスペクトと共にクリアしてきた非凡な才能の持ち主にとってもまったく簡単ではないことが明らかになった。ジョルネは次のように語る。
「 登頂を “征服” とか “制覇” という言葉で表現するのが嫌いだ。 どちらかと言うと、山へ踏み込み、通過することを山に許してもらう感覚に近い。山に入り、僕たち人間がどれだけ小さな存在なのかを知れば圧倒されてしまう。でも、これが登山の魅力なんだ」
ジョルディ・トサス、セバスティアン・モンタ=ロセと組んでのエベレスト初アテンプトは、異常気象で雪崩が発生する可能性が高くなったため失敗に終わったが、ジョルネはポジティブな態度を維持し続けた。「山では困難が起こり得るから、 ポジティブな気持ちで困難を乗り越えていく ことが重要になってくる。エベレストに登頂したいと思っても50%は失敗に終わるんだから」
一歩一歩が戦いだった。酸素不足は脳に影響を与え、認知能力が大きく低下するため、思考するのが難しくなっていく そして、不屈の精神を持つジョルネは2017年に世界最高峰のベースキャンプへ戻ると、今度は たったひとりで再登山 を始めた。エベレスト単独登山に挑む人はまずいない。また、エベレストを一気に登ろうとする人もいない。通常、エベレストでは3段階の気候順応を行わなければならないからだ。しかし、ジョルネは “通常” とは異なる。
「僕は面倒くさがりだからテントを携行するのが嫌なんだ。荷物を軽量にまとめてさっさと往復する方が楽なのさ」
ジョルネの最初のタスクは、全長25kmのモレーン(堆石・氷堆石)だったが、標高7,200m地点に到達する頃には、深刻な下痢と吐き気に悩まされるようになっていた。ジョルネは「一歩一歩が戦いだった。酸素不足は脳に影響を与え、認知能力が大きく低下するため、思考するのが難しくなっていく」と振り返っている。
おそらく自分は食中毒だったと振り返るジョルネは、約半日何も口にしていなかったため、登頂後スピーディにベースキャンプに戻るのに苦労することになり、結局、往復に 26時間 かかった。これは17時間を切る最速記録には遠く及ばない記録だった。
しかし、標高8,850mの山頂を含む全行程で酸素ボンベを一切使用しなかったことを踏まえると、これが素晴らしい功績であることに変わりはなかった。また、通常の登山家なら大満足するはずの記録だった。しかし、繰り返しになるが、ジョルネは "通常” とは異なる。それから4日後、ジョルネは再びエベレストに挑むと、今度は最速記録まであと一歩に迫る 17時間 で往復した。
しかし、ジョルネはこの2回目の下山中に失神と幻覚を体験し、断崖絶壁で500mもコースから外れてしまった。
「何も覚えていないんだ。気がつくとどこにいるのかさっぱり理解できなかった。幻覚を見てしまったんだ。でも、自分は幻覚を見ているという意識はあった」と振り返るジョルネは、一度立ち止まってメンタルを調整したあと再び下山を始め、歴史に残る快挙を成し遂げた。
僕の “道” は山の中にある。僕にとっては、山で自由を感じること、山と繋がることがすべてだ さらに、ジョルネは最近 ロードランニング にも挑戦した。舗装路を走る自分を想像していなかったと振り返るジョルネは、次のように続けている。
「(ロードランニングは)最も愚かな行為だと思っていた。最も退屈なものだと信じていたんだ。だから、試してみて自分の実力を知ることができたのは面白かったね。でも、当然だけど僕の “道” は山の中にある。僕にとっては、 山で自由を感じること 、 山と繋がることがすべて なんだ」